民主主義研究会

【研究会の目的】

現在、欧米の極右現象や新自由主義による格差の拡大によって
民主主義は危機にさらされています。またロシアや中国のような権威主義的・独裁的な国家が増大し、民主主義国家の脅威となっています。現在のポピュリズム的状況に対して如何にして、自由と民主主義の伝統をいかしつつ、それを再興しうるか、このような問題意 識 に 触 発 さ れ て 、 大 学院生や若手研究者と一緒に民主主義 研究会を立ち上げました。ズームで毎月一回持って居ます。以下は、研究会の大まかな記録です。なお研究会はテキストを読み論評する「読書会」、民主主義に関するテーマを発表する「テーマの発表」そして著者に出席してもらって出版された書物を議論する「合評会」の三つに分かれて行いました。

*なおこの研究成果は、2026年5月に古賀敬太・長谷川一年編著『民主主義の危機とその克服』(仮題)で、法政大学出版局から刊行予定です。この書物では、M・ヴェーバー(佐野誠)、G・ソレル(長谷川一年)、C・シュミット(古賀敬太)、H・ケルゼン(松本彩花)、I・バーリン(濱真一郎)、L・シュトラウス(松尾哲也)、H・アレント(和田昌也)、J・ハーバ―マス(大村一真)、Ch・テイラー(千葉眞)、J・ロールズ(田中)という十人の現代思想家の民主主義論を取り上げ、危機の現状を分析し、危機克服の提言を行う予定にしています。

以下、現在までの「民主主義研究会」の記録を紹介します。

*なお民主主義研究会は、2025.4月から同志社大学人文研第六部会(研究代表長谷川一年先生)に移行しましたので、それ以降の記録は同志社大学人文研のHP(https://jinbun.doshisha.ac.jp/jinbun/)を見てください。

 





「民主主義研究会」記録

ヤン・ヴエルナー・ミュラー/ヤシュ・モンク/ナディア・ウルビナティ/
シャンタル・ムフ,水島治郎、千葉眞

第一回 2022.4 .12
  【読書会】
テキスト:ヤン=ヴェルナー・ミュラー『ポピュリズムとは何か』(岩波書店、2017年)
原題 What is populism?、2016.
発表者:大村一真(同志社大学法学研究科博士課程)


ミュラーはC・シュミットの研究者であったが、シュミットの自由主義と民主主義の分離、排他的な同質性の強調をポピュリズムの特徴の分析に適用する。そこには欧米のポピュリズムに対する危機感が表明されている。
 ミュラーは、ハンガリーのオルバン政権が主張する「非自由主義的な民主主義」を否定し、自由主義なき民主主義はもはや民主主義ではないことを主張する。また人民の真の意志を主張する反多元主義的な同質性の主張を批判し、多元主義の確保を強調する。

第二回2024.5
  【読書会】
テキスト:ヤシュ・モンク『民主主義を救え!』(岩波書店、2019年)
原題:The People vs.Democracy-Why our Freedom is in Danger and How to Save it-
発表者:樋口直樹(同志社大学グローバル・スタディーズ研究科修士課程)
  モンクは、ポピュリズムの危険性においてはミュラーに共鳴しつつも、ミュラーがポピュリズムが生じる原因について考慮していないことを批判する。モンクは、ポピュリズム台頭の背景として、SNSの普及、経済の失速と格差の拡大、移民に対するアイデンティティの強化を挙げている。民主主義の救済の処方箋としては、排外的ナショナリズムを飼いならし、多元主義を確保すること、経済を立て直し、現代的な福祉国家を再建する事、市民的徳(civil virtue)の刷新を挙げている。

第三回2024.6
  【読書会】
テキスト: ナディア・ウルビナティ『歪められたデモクラシー』(岩波書店、2021年) 

課程)
 原題:Democracy disfigured
 発表者:佐伯悠人(ボッフム大学院修士 )


ウルビナティは、ポピュリズムが、デモクラシーを活性化するとは考えないし、またハンガリーのオルバン大統領のように非自由主義的な民主主義を認めることに反対である。ポピュリズムは、制度的手続きと制度外の自由な意見表明によって構成される代表制的デモクラシーに敵対的であり、「真の人民」を主張し、多元主義を掘り崩していくのである。ウルビナティの議論は、議会内における議論を生活世界における議論にリンクさせていくハバーマスの「熟義的民主主義」に近い。

第四回 2022,7.19
  【読書会】
テキスト:シャンタル・ムフ『左派ポピュリズム』
(明石書店、2019年)
原題:Chantal Mouffe,For a left popurism,2018)
発表者:松尾哲也(島根県立大学准教授)

シャンタル・ムフは、「左派ポピュリズム」を新自由主義によってもたらされた「ポスト・デモクラシー」(人民主権や議会の機能の低下や既得権益層の支配)に対抗して、民主主義を根源化し、深化させるものとして積極的に評価している。左派ポピュリズムの運動として有名なものは、ギリシャの「シリザ」、スペインの「ポデモス」、米国のサンダース、英国労働党左派のコービンなどが挙げられる。ムフは、右派ポピュリズムの排他的同質性に対して、複数性や多元的民主主義を提唱しつつも、民主主義の徹底を主張する。また彼女は、合意を前提とする熟義的民主主義に対して「闘技的民主主義」を主張する。彼女は、ヘゲモニーによる「等価性の連鎖」の創出を「左派ポピュリズム」の戦略として描き出す。
「左派ポピュリズムは民主主義の深化と拡張のためにその回復を求める。左派ポピュリスト戦略は民主的な諸要求を、少数者支配という共通の敵に立ち向かう「私たち」、すなわち「人民」を構築するための集合的意思にまとめあげようとする。このためには、労働者や移民、不安定化した中間層、さらにLGBTコミュニティのような、その他の民主的諸要素を持つ人々の間に、等価性の連鎖を確立する必要がある。このような等価性の連鎖がめざすものこそ、民主主義の根源化を可能にする新しいヘゲモニーの創出である。」(40頁)
問題は、こうした等価性の連鎖を創出することがそもそも可能かということである。

第五回 2022、8.23
 【読書会】
テキスト:水島治郎『ポピュリズムとは何かー民主主義の敵か改革の希望か』(中公新書、2016年)
発表者:佐久間啓(同志社大学グローバル・スタディーズ博士課程)

水島氏のポピュリズムに対する評価の特徴は、ポピュリズムを人民の政治参加という視点から積極的に評価している点である。EUの拡大や新自由主義による格差の拡大、既成のエリートによる支配に抗議して、ポピュリズムは登場する。ただこうしたポピュリズムが、権威主義に転化し、逆に民主主義を掘り崩していく危険性をも認識し、その是正策をも提案する。 一般的にポピュリズムを否定的にしか評価しない風潮にあって、その積極的な意味をも分析してることが本書の特徴である。ただ20世紀におけるファシズムの展開に類似していることを考えると、ポピュリズムという思想的・政治的現象に楽観的ではないかという印象をぬぐえない。






 第六回合評会 2022.9.
  【合評会】
テキスト:千葉眞『資本主義・デモクラシー・エコロジー』(筑摩選書、2021年)
発表者:千葉眞(ICU名誉教授)

千葉氏は、ラジカルデモクラシーを提唱してきた政治学者である。彼は、新自由主義や金融資本主義の進展により、デモクラシーと立憲主義が危機に晒されていると主張する。新自由主義による格差の拡大は、福祉国家による格差の是正では到底追いつかず、資本主義そのものの創造的破壊が必要だ。新自由主義は政治においてもエリート支配を生み出し、代表制の機能の喪失を生み出す。千葉氏の議論では、資本主義と民主主義の相克はもはや両立しえないほどまでに先鋭化している。しかし、どのようにして新自由主義や金融資本主義がエスカレートしていく中で、立憲主義や民主主義を守っていくのかについては、残念ながら十分な解明がなされていない。




ハバーマス/ ヤン・ヴエルナー・ミュラー

第七回2022.10 
  【読書会】
ユルゲン・ハバーマス『資本主義かデモクラシーかー危機の中のヨーロッパ』(三島憲一訳、岩波現代文庫、2019年)
発表者:大村一真
原題:Demokratie
oder Kapitalismus
 本書は、ハバーマスの論文集であり、そこでは、金融資本主義と民主主義の問題、右翼ポピュリズム批判、危機に瀕するヨーロッパ統合の拡大の主張が展開されている。最も大事な論稿が「デモクラシーか資本主義か」であり、金融資本主義による格差の拡大や民主主義の機能低下を、国民国家単位の政策によって解決することを主張するシュトレークに対するハバーマスの批判である。彼は、金融資本に対する規制を強化するEUの政治統合を進めることの必要性を論じている。たしかに左派ポプリズム政党のギリシャのシリ(syriza) のチプラス政権が2015年に実施した国民投票によって、EU側が要求する緊縮財政を否決したが、最終的にチプラスはギリシャがデフォルトを回避するためにEU側の要求を飲まざるをえなかった。そこには、国民国家の主権によって、金融危機を解決することの問題点が露わになったといえる。しかし、ハバーマスのコスモポリタニズムやEUの政治統合の拡大という事態が、政治的決定から排除された人々のポピュリズムやナショナリズムを増幅させている事態を、どのように考えたらいいのだろうか。この点に関して、ハバーマスは楽観的ではないだろうか。この点は彼の「憲法パトリオティズム」の主張の問題でもある。




第八回2022.11 
【読書会】
ヤン・ヴエルナー・ミュラー『試される民主主義ー20世紀ヨーロッパの政治思想』(上)(岩波書店、2019年)
発表者:松尾哲也
 原題・"Contesting Democracy-Political Ideas in Twentieth-Century Europe",2011. 
ミュラーの本書は両大戦期におけるファシズムや共産主義の民主主義的正統性に依拠する独裁とポピュリズムとの類似性を念頭に置いて、非自由主義的な民主主義を批判することを目的としている。彼の標語は、「制約された民主主義」である。立憲主義、議論、多元主義によって特徴づけられる 「制約された民主主義」は、まさに両大戦間期によって激しく攻撃された。一方におけるレーニン、スターリン、ルカーチ、グラムシ、他方におけるソレル、シュミット、ムッソリーニ、ヒトラーによって、まさに反多元主義で、一体化した集合的人民という民主主義の名のもとに、自由民主主義や議会制民主主義、人権が掘り崩されていったのである。
 ミュラーは、「日本語版に寄せて」において、一方においてテクノロシーやエリートの支配、他方におけるポピュリズムの反多元主義や権威主義の挑戦を受けている今日、「民主主義をめぐる新たな不確実性の時代を理解し、乗り越えるためにも」、20世紀の政治思想の遺産(負の遺産も含め)と対決する必要性を主張している。

第九回2023.11、16
  【読書会】
ヤン・ヴエルナー・ミュラー『試される民主主義ー20世紀ヨーロッパの政治思想』(下)(岩波書店、2019年)
発表者:松尾哲也
 原題・"Contesting Democracy-Political Ideas in Twentieth-Century Europe",2011. 
下巻は第二次大戦後から1989年の冷戦の崩壊までを扱っている。戦後の民主主義の特徴として、ミュラーは、人民主権に対する不信感に裏打ちされた「抑制された民主主義を創出した。戦後の西ドイツの「ボン基本法」で国民投票制度を排除したり、憲法裁判所を設立したことがその証左である。ファシズムや人民民主主義の反省の下に、自由主義ないし立憲主義と民主主義の結びつきが強調されたのである。
しかし60年代後半、そして70年代となると、「形式的民主主義」や「権威主義的福祉国家」、「大連立」などに対する反動として議会制をバイパスした学生たちの直接行動が盛んになる。「異議申し立て」の時代である。また1980年代、サッチャーやレーガンなどの「新自由主義」政策によって経済格差が拡大し、同質性を基調とする民主主義は挑戦を受けることになる。しかし、1989年の東欧の一党独裁の崩壊と市民社会論に根差した民主主義の復活によって、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」と称した「自由民主主義の勝利」を迎えるに至った。
  『試される民主主義』は、2011年に刊行されたこともあって、欧米や東欧に迫って来る「ポピュリズムム」に対する危機感は見出されない。2016年に出版された『ポピュリズムとは何か』は、『試される民主主義』の続編であり、歴史が終わりではなく、まさに民主主義の危機の再来を示すものである。ミュラーにとって1920~30年代のファシズムや共産主義、1960年代後半の学生の直接的な街頭運動、そして2015年以降のポピュリズムは、自由主義や立憲主義なき民主主義の「制約されない」形態なのである。
 こうした戦後の民主主義の変容の文脈の中に、ミュラーは、マリタン、マルクーゼ、フーコー、ハイエク、ハバーマス、ハヴエルの政治思想を位置づけ、民主主義の意味と実践をめぐる思想的ドラマを展開する。



ラリー・ダイアモンド/松本彩花/牧野雅彦

第十回研究会(2023.2.27)

【読書会】
ラリー・ダイアモンド『浸食される民主主義』(上、下)(勁草書房、2022年)
原題:ILL winds-Saving Democracy from Russian Rage,Chinese Ambition,and American Complacency
   *著者のアメリカの自由民主主義に対する信念
や民主主義の伝道者としての彼の使命感がにじみでている啓蒙の書。ただ欧米におけるポピュリズムの危機感は顕著であるが、なぜポピュリズムが台頭し権威主義への傾向が生じているかの分析が不足。また中国やロシアの民主主義に対する執拗な攻撃に対する批判が前面に登場しているが、米国が民主主義擁護ないし樹立の名目で戦争に訴えたイラン・イラク戦争の結末については沈黙している。
ただ著者がハードパワー、ソフトパワーの概念に対して用いている新たなシャワープパワー、構造的な汚職とクレプトクラシーとの関係などの分析は、デジタル時代においては重要である。彼は、帝政ロシアにおける大虐殺を逃れてアメリカに渡ったユダヤ系移民三世である。最後に彼の言葉を引用しよう。
「自由民主主義が突然心臓発作を起こして死んだことはない。自由、法の支配、権力の均衡といった動脈は、最後に至るよりずっと前から顕著に閉塞し始めているものである。」(上、25頁)

第十一回研究会(2023.3.13 

 【テーマ報告】

報告者:松本彩花氏(日本学術振興会特別研究員、ウィー大学法学史・憲法学史研究所客員研究員)
タイトル:「カール・シュミットの民主主義論の成立過程ー第二帝政末期からヴァィマール共和国中期まで」
コメンテイター
牧野雅彦氏(広島大学名誉教授)
佐野誠氏(奈良教育大学名誉教授)

松本氏の研究は、シュミットの民主主義論の形成過程を考察したものであり、シュミット研究の中では異例のテーマである。従来シュミット研究は、国家論、主権論、非常事態論を中心に据えて、自由主義に対抗して、国家の権威を弁証するシュミットに光が当てられていた。その際、彼の民主主義論は、独裁の正当化理論として一掃される傾向があった。しかし最近のポピュリズムの台頭によって、シュミットの民主主義論とポピュリズム理論の共通性、親近性がヤン・ヴエルナー・ミュラーの『ポピュリズムとは何か』によって指摘されるに至り、シュミットの民主主義論の批判的考察が今日的課題となっている。特に自由主義と民主主義を分離し、相互に対置すること、人民の意志の一体性を強調し、反多元主義的であること、民主主義を「治者と被治者の同一性」と定義しつつも、結局は、指導者の意思に人民の意志を同一化し、人民を喝采する立場に堕させる手法は、今日のポピュリズムに共通した手法である。
コメンテイターの牧野雅彦氏と佐野誠氏、またシュミット研究者の長野晃氏から、シュミットの個々の問題について有益な指摘がなされた。


 





第十二回研究会(2023.4.24)
   【合評会】

牧野雅彦著:「ハンナ・アーレントー全体主義の悪夢」(講談社現代新書、2022年)
コメンテイター:寺島俊穂氏(関西大学名誉教授)
*なお牧野氏には、「精読 アレント『全体主義の起源』(講談社選書メチエ)の著書もあります。 

*第十二回研究会(2023.4.24)

   【合評会】
 牧野雅彦著:『ハンナ・アレント
――全体主義という悪夢』(講談社現代新書、2022年)
コメンテイター:寺島俊穂氏(関西大学名誉教授)
*なお牧野氏には、『精読 アレント『全体主義の起源』』(講談社選書メチエ)という著書もあります。 

最初に、牧野氏から『精読アレント『全体主義の起源』』の概要の説明があり、全体主義の成立に至る「国民国家」の崩壊と「大衆」(mass) の登場が説明された。
  この後コメンテ―タ―の寺島俊穂氏から、牧野氏の『ハンナ・アレント――全体主義という悪夢』について5つの質問が投げかけられた。第一点は、全体主義は現実であったのに、なぜ「悪夢」と表現するのか、第二点は、なぜアレントは全体主義研究に取り組んだのか、その実存的動機は何か、第三点は、全体主義が再現するとしたら、新しい全体主義はどのような形態をとるのか、第四点は、全体主義の到来を阻止するものは何か(寺島氏の意見では、堅固な市民社会の存在、立憲主義、良心的抵抗や市民的不服従)、第五点は、「事実の真理」と「哲学の真理」の関係と違いについてであった。
   こうした5点に関する質問に対する牧野氏の回答、そして、アレント研究者である和田昌也氏の感想の後、参加者全員による質問、意見表明が行われたが、主に、全体主義は再度回帰するのか、もし出現するとすればどのような形態かという論点に集約された。和田氏はアレントの歴史観として全体主義は一回限りの歴史的現象であり、歴史は繰り返さないので、アレントは全体主義の再来は念頭においていなかったのではと主張された。また全体主義と民衆を動員しながら下からの権威主義を目指すポピュリズムの違いも議論された。寺島氏は、全体主義の近似の戦後の歴史的現象としては、中国の文化大革命、カンボジアのポルポト政権の大虐殺を指摘された。
   30年間ジャーナリストを経験された樋口氏は、事実が顧みられず、共通世界が失われていくことに憂慮の念を表明された。この点は、牧野氏が著書の第五章「抵抗の拠り所としての「事実」」、第六章「「事実の真理」を守りぬく」を強調し、フェイクニュースや陰謀論が飛び交うインターネットの仮想空間があたかも現実であるかのように大衆を動員する「デジタル全体主義」への懸念と一致する点である。ただ寺島氏は、SNSは独裁体制に対する抗議運動や地球民主主義促進の有効な手段となることも強調された。
  時間の関係で、アレントの全体主義論と国民国家論との関係、全体主義の構造としての秘密警察や相互監視体制の中国やロシアにおける実態、全体主義が破壊した「公的空間」、「複数性」などがいかにアレントの『人間の条件』や『革命について』において回復されているかなどの諸問題について議論できなかったのは残念である。最後の点については、牧野氏の最新刊の著書『精読 アレント『人間の条件』』(講談社選書メチエ、2023年)を参照の事。

 


第十三回研究会(2023.5.22)
【読書会】
テキスト:権左武志著『現代民主主義ー思想と歴史』(講談社選書メチエ2020年)
発表者:大村一真氏(日文研)

本書の構成は、以下の通りである。
 序章 民主主義のパラドックス
第一章 近代民主主義とナショナリズムの誕生
第二章 自由主義者の民主主義批判とナショナリズムの誕生
第三章 民主主義観の転換とナショナリズムの暴走
第四章 民主主義の再検討とナショナリズムの封じ込め
第五章 冷戦終結後の民主主義とナショナリズム
ここでは、5点ほど本書の批評を行う。
最近では、ポピュリズムの台頭と拡大の脅威を受けて、「自由主義なき民主主義」を批判し、それに、民主主義のあるべき姿として、「自由民主主義」、「多元的民主主義」、「立憲的民主主義」、「議会制民主主義」を対置する議論が有力である。民主主義概念が多義的であるため、形容詞を付加することによって、民主主義の意義内容を明らかにする試みである。しかし著者は、民主主義の理想を定義することはしないで、実質的な基準を設けず、したがって「劣った民主主義」と「真の民主主義」を区別することを否定する。
 第二点であるが、それでは本書の根底にある民主主義概念とは一体何であろうか。それは、J・J・ルソーの『社会契約』に展開されている人民主権論であり、「治者と被治者の同一性」と定義される「純粋民主主義」である。
第三点として著者は、「純粋民主主義」の退行現象(231頁)として、反多元主義、反自由主義、指導者民主主義を描き、ウエーバーやシュミットを事例として、民主主義が指導者民主主義や独裁をもたらす危険性をできるだけ評価を交えずに描き出している。
第四点としてそうしたルソー的な純粋民主主義の危険性を防止する試みとして、著者は、19世紀のミルやトックヴィルによる自由主義と民主主義の結合、第二次世界大戦後におけるアレントの「評議会制」、ハバーマスの「政治的公共性」や「熟義民主主義」(deliberative democracy),シュンペーターの「競争的民主主義」、ダールの「多元主義民主主義」などの「修正民主主義」などを客観的に描いている。その意味において、本書においては、自由主義と民主主義の相克と接合が間接的に展開されているといえる。
  第五点として本書の一番の魅力と醍醐味は、民主主義とナショナリズムとの相互作用が説得的に論述していることである。フランス革命期、そして両大戦間期において、民主主義とナショナリズムは表裏一体として進行していき、思想的にはウェーバーやシュミットに理論化されていった。これは、現代においてもポピュリズムが、少数者支配や権力の分立に対抗して、権力の集中と排他的なナショナリズムを再生産することにも見られる現象である。著者は、ポピュリズムの評価に関しては言及していないが、一方において民主主義の深化として評価する議論があるものの、基本的に「純粋民主主義」の退行現象としてみていたのではないだろうか。
  本書では、こうした民主主義とナショナリズムの歴史的な結びつきがテーマとなっているので、自由民主主義、立憲的民主主義、代議制民主主義、多元的民主主義を提唱し、民主主義を擁護する議論とは叙述の展開が異なっている。
 ちなみに、本書の中では、ウエーバー、シュミット、アレントなどについて専門的な知見がみられ、啓発的である。
  一つだけ私見を言えば、治者と被治者の同一性の「純粋民主主義」は、変質して、排他的ナショナリズムや民主主義独裁となる危険性だけではなく、H・ケルゼンが『民主主義の本質と価値』(第二版、1929年)で述べているように、議会制や基本的人権の擁護を前提とした上で、一層の民衆の政治参加を促進する原動力となりえるのではないだろうか。まさにケルゼンはルソーの『社会契約』に触発されて、権力の分立や個人の自由、議会制を担保しつつも、治者と被治者の同一性を理想とする『民主主義の本質と価値』を構想したのではないだろうか。
  著者の民主主義の理想とは一体何か、是非聞いてみたい所である。

文責 古賀敬太


 第十四回研究会(2023.6.26)

     【テーマ発表】

樋口直樹(グローバル・スタディーズ博士課程)
「エジプト民衆革命の『挫折』はどのように語られたのか:米・アラブメディアの言語分析」

コメンテイター:四戸潤弥氏(元同志社大学CISMRセンター長、現在拓殖大学イスラム研究所客員教授)


参考文献:鈴木恵美『エジプト革命ー軍とムスリム同胞団、そして若者たち』(中公新書、2013年)


 2023年6月「民主主義研究会」の記録 

 

2023年7月31日 

同志社大学GS研究科研究科 

樋口直樹 

 

 6月26日(月)の研究会は、「エジプト民衆革命の『挫折』はどう語られたか-米・アラブメディアの言説分析-」をテーマに樋口が発表した。 

コメンテーターは、四戸潤弥(しのへ じゅんや)・同志社大学名誉教授、拓殖大学イスラーム研究所客員教授が務めた。 

 

1,発表の概要 

2011年にムバラク独裁政権を打倒したエジプト民衆革命は、民主的に選出されたモルシ大統領が13年の政変で追放されたことで挫折したようにみえる。革命によって民主化に乗り出した人々が、自ら選んだ大統領をエジプト軍とともに葬ってしまったからだ。なぜこのような「矛盾」が起きたのか。世界中のメディアがさまざまな論陣を展開したが、評価はいまだ定まっていない。本研究の目的は、米・アラブメディアの言説分析によって、政変に関する評価の違いがどこから生じているのかを明らかにすることにある。 

本研究では、米国のニューヨーク・タイムズ(NYT)とカタールのアルジャジーラ・イングリッシュ(AJE)、エジプトのアハラム・オンライン(AO)の社説・論説を対象に質的調査を行った。具体的には、①軍部によるモルシ大統領の解任 ②モルシ大統領の辞任を求めた野党勢力の蜂起 ③モルシ政権とムスリム同胞団による政権運営 ④政変に対するオバマ米政権の反応――という四つの評価軸を設け、各メディアがどのような見解を示したのかを比較分析した。 

 四つの評価軸に関する見解の根拠を分析した結果、選挙結果を重要視する民主主義のあり方、同胞団を母体とするモルシ大統領の政権運営、同胞団のイスラム主義と民主主義との両立性、同胞団と米国との関係などについて、各メディアの言説に大きな相違があったことがわかった。注目されたのは、NYTとAJEが選挙民主主義の正当性を根拠に13年の政変を「クーデター」と断じたのに対し、AOは「権威主義的な」モルシ政権を生んだ選挙民主主義に懐疑的な立場から政変を「革命」の延長線上に位置付けていた点である。ただ、選挙民主主義の原則で一致するNYTとAJEの間にも、モルシ政権の評価をめぐって大きな隔たりがあった。「失政」に同情的なAJEに対し、NYTは「強権的な」政治手法に極めて批判的で、選挙民主主義の原則を掲げならモルシ政権の復帰を求めないという現実主義的な姿勢をみせた。 

 革命の主体であるエジプト人の選挙民主主義への疑問や制度外政治への傾倒、オバマ米政権のオリエンタリスト的な現実主義、同胞団の反革命的な性格などが、日本を含む欧米メディアで広く議論されることはなかった。「民主主義」に対する認識が実に多様であるにもかかわらず、西洋的価値観に基づく選挙民主主義を自明のものとみなし、それが民主化による「自由とパン(社会的公正)と尊厳」の実現を求める人々から「強者の論理」として認識されていることに無頓着だった。 

欧米諸国で民主主義の機能不全がポピュリズムの波を引き起こす一方、「グローバル・サウス」と呼ばれる非同盟色の濃い新興諸国は欧米中心の民主主義ブロックと一線を画す動きを強めている。エジプト民衆革命に伴う民主化の「挫折」は、西洋的な民主主義観とその運用実態に疑問を投げかけているといえないだろうか。 

 

2,四戸教授の主なコメントと質疑応答 

<用語用法について> 

Q:「民衆」や「蜂起」という用語を基本として現状を否定的に見ることは、価値判断を含んでいるとの指摘がなされる可能性がある。「民衆」という用語には党派的な意味合いがあり、これを(モルシ政権に反対する)抗議デモ参加者に用いると、彼らは党派的でないという事情を伝えないことになってしまわないか? 

A:本稿では、時の支配者層と対置される被支配者の総称として「民衆」という用語を使った。定義はあいまいで、そこに含まれる人々の政治的立場は非常に幅広い。「日本のかつての学生運動家たちが好んで使いたがった…共感用語」であるとの指摘だが、本稿にはそのような党派的な意味合いを込める意図はなかった。誤解を避けるためにも、本稿における「民衆」や「蜂起」といった用語の定義をあらかじめ明らかにすることを考えたい。 

 

Q:イスラムと民主主義を対比しているが、宗教が社会構造軸となっている中東地域の分析には留意した用語用法が必要である。本発表で問題となっているのは政治的イスラムであって、イスラム信仰と区別した方が論の整合性を高めるだろう。 

A:ご指摘の通りである。エジプト人の大部分を占めるムスリム(イスラム信仰者)のなかにあっても、政教分離を主張する世俗派と、イスラムの価値観に基づくウンマ(イスラム共同体)の構築や社会改革を目指すイスラム主義者(政治的イスラム)の間には、抜き差しならぬ緊張が存在した。こうした緊張関係が2011年のエジプト革命によって顕在化したことを考えれば、こうした事情をあらかじめ説明し、「イスラム主義」の定義を明確にしておく必要がある。なお、今回の発表では時間的な制約によって、上述の「民衆」を含む定義の説明を割愛したが、修士論文では説明を加えていることを付記したい。 (文責 樋口直樹)

 

 


第十五回研究会(2023.7.31)

    【テーマ発表】
発表者:佐伯悠人(ドイツ、ボッフム大学修士課程)
「中国におけるカール・シュミット研究の動向」

コメンティター:長野晃氏(慶応大学法学研究科専任講師)

著書『カール・シュミットと国家学の黄昏』(風行社、2021年)


参考文献
鈴木敬夫「国家主義と不寛容:中国にみる『敵・味方論』の不寛容を問う」、『専修総合科学研究』第24巻、2016年、1-20頁。

 

Busk, L., A. (2021) Schmitt’s democratic dialectic: On the limits of democracy as a value. Philosophy and Social Criticism. 47(6), pp. 681-701. 

 

Galli, C., Fay, E. (2010). Carl Schmitt and the Global Age. CR: The New Centennial Review. 10(2),  pp. 1-25. 

 

Karolewski, I., P. et al. (2023) Carl Schmitt and Democratic Backsliding. Contemporary Political Theory. pp. 1-32. 

 

Libin, X., Patapan. H. (2020) Schmitt Fever: The use and abuse of Carl Schmitt in contemporary China. I.CON. 18(1), pp. 130-146. 

 

Lucas Brang. (2020) Carl Schmitt and the Evolution of Chinese Constitutional Theory: Conceptual Transfer and the Unexpected Paths of Legal Globalization. Global Constitutionalism. 9(1), pp. 117-154.

 

Marchal, K., Shaw, C. K. Y. eds. (2020) Carl Schmitt and Leo Strauss in the Chinese-Speaking World: Reorienting the Political. Maryland: Lexington Books. 

 

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Zheng, Qi. (2017) Chinese Political Constitutionalism and Carl Schmitt. Carl-Schmitt-Studien. 1, S. 43-55. 

【1】最初に佐伯氏から「中国におけるカール・シュミットの動向」というタイトルで研究発表が行われた。
佐伯氏は現在中国では、「シュミット旋風」と呼ばれるほど、シュミットの政治思想への注目が高まっていることを指摘し、中国におけるシュミット受容の背景と特質を考察する。中国の一党独裁体制は、中国の共産党を人民主権の行使者とみなす「人民民主独裁」なので、シュミットの民主主義的独裁論と親和性を有する。
中国におけるシュミット研究は、国家の安全や主権を重視する保守派のみならず、保守派や自由主義派と一線を画する「中国の道」を模索する研究者によっても行われている。中国におけるシュミット旋風の火付け役となったのは、劉小楓である。彼は、シュミットの『政治神学』、『合法性と正当性』、『政治的ロマン主義』を中国語に訳した人物である。彼は、シュミットの決断主義、国家主義、友と敵の区別の意義を強調し、人民主権と党の指導による強力な国家統治を提唱する。劉はまたシュミットのカトリック教会の「再現前(Representation)」や政治神学に注目し、自由主義批判として展開している。
【2】「中国の道」と「新左派」のシュミット研究
「中国の道」の代表的理論家は、陳瑞洪(1966-  )である。彼は、シュミット的憲法解釈を中国共産党の支配体制を正当化するために利用する。彼は、人民主権論と一党独裁が両立することを強調し、「憲法制定権力」は、中国共産党や人民代表大会によって行使されることを強調する。彼は、シュミットがナチズムに関与したことについては全く触れようとしない。
「新左派」は、1990年代に現れた学者グループで、その代表的論客は、汪暉(1959-  )である。彼は、腐敗と不平等の元凶である市場経済と資本主義体制を批判し、毛沢東時代への回帰を目指す。その際シュミットの「中立化」や「脱政治化」批判を継承し、中国のアイデンティティを回復し、脱政治化から政治化を回復し、分配の問題についても政治的な決断を下すべきことを提唱する。
【3】更に、「一帯一路政策」や香港・台湾問題との関連でシュミットのグロース・ラウム理論も注目されており、また新彊ウイグルの人権弾圧を正当化するために、民主主義には異質的なものの排除が伴うというシュミットの民主主義論が引き合いに出され、更には、ウイグルのテロによって生じた事態を「例外状態」とみなし、その克服のために巨大な国家権力が要請されることとなる。

【4】 佐伯氏は、最後に高全喜(1962- )の所説を好意的に紹介している。高全喜は、人民主権に基づく、共産党の一党独裁に対抗して、シュミットの「友と敵」理論に依拠しない「自生的な社会秩序」た「政治的立憲主義」を提唱している。高は、シュミットの反自由主義思想の中国的受容の問題点を指摘し、そもそもシュミットが敵とみなしたヴァィマール憲法のような自由主義的憲法が中国には存在しないので、シュミットを持ち出すことがどれだけ正当性を持つかと疑問を呈している。高にとって、シュミットが指摘した自由主義の脆弱性を克服し、自由主義の理論的基盤を確立することが大事なのである。
 最後に佐伯氏は「民主主義の危機が叫ばれる今、中国におけるシュミット解釈に目を向けることは、非常に示唆的であると考える」と締めくくっている。
  
【長野氏によるコメント】
評者は、「佐伯報告は現代中国におけるシュミット受容に関する有益な見取り図を提供している」とした上で、幾つかの問題点を指摘している。
【1】評者は、佐伯報告では二次文献に依拠しているため、実際に中国語の文献を参照して、個別的な分析を深めていくことが大事であるとして、現代中国におけるシュミット受容を多角的に描き出すためには、特殊シュミット的な概念がどのように中国語に翻訳されて、どのようなニュアンスを含んでいるのか、シュミットの概念や議論を援用することに対して中国国内でどの程度批判があるのか、選択的に重要される場合、どの部分が戦略的に切り落とされているのか、シュミットと同様に他のどのような思想家が論じられているのか、どのような出版社がどのような読者に向けてシュミットの翻訳をすすめているのかを調べる必要があると指摘する。
【2】次に評者は、それぞれの研究者のシュミット受容の特徴と問題点を佐伯報告を補完しつつ、指摘する。
Ⅰ 劉小楓(Liu Xiaofeng)  彼は、バーゼル大学神学部でマックス・シェーラーで博士号を取得した研究者で、シュミットの時代批判やカトリック思想に共鳴し、中国の近代化がもたらす問題と批判的に取り組んでいる。そこで評者は、「このような人物によって最初の本格的な受容が始まったことは、中国におけるその後のシュミット受容のあり方をどの程度まで規定しているのか、劉におけるシュミットのカトリシズムへの賛同について、それが現代中国における支配的イデオロギーとどのような関係にあるのか」と問い、シュミット的なカトリシズムの技術的・経済的思考に対する批判は、マルクス主義にも適用可能であるので、劉自身の政治的立場をも掘り崩すことになるのではと疑問を投げかけている。
Ⅱ 陳瑞洪(Chen Duanhong) 陳は、憲法学者、行政法学者であり、シュミットの憲法論を中国憲法の解釈に活用している。その中心が「憲法制定権力」と「憲法決定権」(constituted power)の区別である。通常constituted powerは、「憲法によって構成された権力」と訳されるが、「憲法決定権」と訳することには何か意図があるのかと評者は疑問を投げかけている。更に評者は陳の議論には、シュミットの『憲法論』における「絶対的な憲法概念」や「憲法制定権力」の独自の理解など、シュミットの理論を修正している点があることを指摘している。その上で、評者は「一党独裁を正当化する点では、共通性を有する憲法学者の間に、いかなる点において見解の相違があるのか、そのような見解の相違を考える上で、シュミットの思想の影響力がどこまで意味を持っているのか」を精しく見ることが必要であると主張している。

第十六回研究会(2023.9.4) P.M.17:00-19:00
   【読書会】
テキスト;待鳥聰史『代議制民主主義』(中公新書、2015年)
 *代議制民主主義の抱える問題点と再興の処方箋を考える。

    【書物の構成】

序章 代議制民主主義への疑問ー議会なんて要らない?
第一章 歴史から読み解くー自由主義と民主主義の危機
第二章 課題から読み解くー危機の実態と変革の模索
第三章 制度から読み解くーその構造と四類型
第四章 将来を読み解くー変革のゆくえ
終章 代議制民主主義の存在的意義
 【1】
待鳥氏の『代議制民主主義』は、自由主義と民主主義の両輪によって構成されていると主張するが、基本的に民主主義に対して抑制的であり、代議制を熟議民主主義や直接民主主義的に変革すること、議会や政治家の決定に世論の足かせをつくることに否定的である。それは、著者が代議制をシュミットのように自由主義の産物として理解しているからであろう。待鳥氏は、代議制民主主義における自由主義的要素、つまり政治的エリートの競争や権力の分立を強調し、多数者の専制を回避するマディソン的自由主義の立場に依拠している。
【2】
こうした自由主義的要素を重視する著者の代議制民主主義は、昨今のポピュリズムの激流に対抗しうるであろうか。権力分立や既成政党間の競争が民意の反映を妨げているという批判にどのように答えるのであろうか。
【3】著者は、執政制度(大統領制、議院内閣制、半大統領制)と選挙制度(小選挙区制、比例代表制、小選挙区・比例代表制並立制)がどのように結びつくかによって代議制度が自由主義的方向に傾くのか、それとも民主主義的方向に傾くかを診断している。彼自身は、権力が集中するのではなく分立する大統領制、また国民の世論が忠実に代弁される比例代表制ではなく、二大政党制をもたらす小選挙区制を選んでいるように思われる。
【4】
著者は自由主義をロック的自由主義とマディソン的自由主義とを区別しているが、この区別は曖昧である。ロック的自由主義を経済的自由主義とみているのか、「社会契約」に注目してそこに民主主義的要素を見ているのか、不明である。
【5】
委任と責任の連鎖を説く著者は、行政の議会に対する説明責任、また議会の有権者に対する説明責任を強調するが、世論を議会に反映させることに対しては抑制的である。説明責任を果たし得ていないという現実の日本の政治は大いに問題があるが、たとえ説明責任が果たされたとしても、世論が政治にフィールドバックされる回路を持たないような議会制民主主義は早晩硬直化・寡頭制化し、逆に民衆の直接行動を招来させるのではないだろうか。
【6】総じて制度論としては興味深い点はあるものの、議会の思想史的分析においては物足りない印象をぬぐえない。 文責 古賀敬太


第十七回研究会(2023.10.2) PM.17:00-19:00
  

  【合評会】
テキスト:今野元『マックス・ヴェーバー主体的人間の悲喜劇』(岩波新書、2020年)
  著者 :今野元氏(愛知県立大学教授)「自著を語る」
 コメンテイター:佐野誠氏(奈良教育大学名誉教授)
*なお今野氏の著作『ドイツ・ナショナリズム』(中公新書、2021年)も参照の事。

【1】 最初に今野氏に「自著を語る」と題して、『マックス・ヴェーバー主体的人間の悲喜劇』が目指しているところを語ってもらった。その中で、ヴェーバー研究の方針として三つのことが指摘された。
 第一点は、同時代政治史や人格形成過程から思想へアプローチする「伝記論的転回」を採用し、そのために『ヴェーバー全集』(MWG)やプロイセン枢密国家文書館における新資料を詳細に読み込んでいる点である。
第二点は、学者としてのヴェーバーよりも政治当事者としてのヴェーバーに焦点を当てている点である。例えば「ポーランド問題」におけるヴェーバーの論考には、ヴェーバーのナショナリストとしての立ち位置が前面に登場してくる。著者は、国民国家批判のためのナショナリズムの脱構築に批判的であり、ナショナリズムの思想史の一環としてヴェーバー研究に取り組んでおり、その点において、次の書物『ドイツ・ナショナリズム』(中公新書、2021年)と密接な関係を有している。
第三点は、ドイツの学会との対決であり、今まで触れられてこなかったヴェーバーの側面を紹介する試みである。
 【2】本書の構成

第一章 主体的人間への成長 1864-1892年
第二章 社会ダーウィニズムへの傾倒 1892-1904年
第三章 ドイツ社会への苛立ち 1904-1914年
第四章 ドイツの名誉のための闘い  1914-1920年
終章 マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー

【3】 コメンテーター佐野誠氏のコメント

ここでは、コメントを四点に要約して紹介する。
第一点は、今野氏の本著が、『マックス・ヴェーバーーある西欧派ドイツ・ナショナリストの生涯』(東京大学出版会、2007年)の精査・補充したものであること、また副題にある「主体的人間」の意味が単に自立性のみならず、闘争における攻撃性を含んでいることを指摘している。「主体性」の理解によって、丸山眞男以来のヴェーバーの近代主義的理解と大きく異なっていることがわかる。また佐野氏は、本著が、マリアンネ・ヴェーバーの「聖マックス像」の破壊の試みであることを指摘している。実際今野氏の著書は一部のヴェーバー研究者の批判や反感を引き起こしたが、それもこうした偶像破壊に伴う不可避的な現象であろう。
第二点は、著者がヴェーバーの「社会ダ―ウィニズムへの傾倒」について触れていることについて、佐野氏は「社会的ダ―ウィニズムへの強い関心」ではないかと批評している。というのも、ヴェーバーは1895年の『国民国家と経済政策』の段階で「ダーウィンやヴァイスマンの言う意味での淘汰の見地」を経済研究の分野に押し広げようとしている人類学者たちの学的姿勢に慎重であったし、1904年のドゥ・ボイスへの書簡ではH・S・チェンバレンの著作に対して「ディレッタント的な文献」と言って揶揄しているからである。またヴェーバーが日常的に使用している差別用語をストレートに人種差別に結び付けることに対しては慎重であるべきだと佐野氏は主張する。
第三点は、ヴェーバーのナショナリズムに関しては詳しく描かれているが、彼の自由主義観が具体的に提示されていない点である。ヴェーバーにおける自由主義とナショナリズムの緊張関係はどうであるか。
第四点は、ヴェーバーとヒトラーの関係性であるが、今野氏は両者が共に「社会ダーウィニズムに依拠」している点、そしてヴェーバーの指導者民主主義とヒトラーの「ゲルマン的民主主義」の類似性を指摘しているが、佐野氏はヴェーバーが守ろうとしたのはあくまでもユダヤ人を含めたドイツ国民であって、ヒトラーの場合はドイツ民族、ないし人種的なドイツ人であり、根本的に異なるものであると主張する。

 こうした佐野氏の疑問点に対して、今野氏は著書の関係個所を開きつつ、丁寧に答えられた。  
なお研究会にはヴェーバー研究家の牧野雅彦氏も参加され,活発な議論が展開された。その中でヴェーバーがナチズムの思想の先駆者であるとするモムゼン・テーゼの是非、ヴェーバーとシュミットとの関係、また日本における近代主義的なヴェーバ解釈と近代批判的な解釈に対する著者の批判、そしてヴェーバーの伝記論的転回と彼の学問的著作との関係如何が議論の中心となった。

総じて、既存のヴェーバー研究を伝記論的転回から批判し、新たなヴェーバー像を批判や反感を恐れることなく提示した今野氏の試みが、ヴェーバー研究の歴史に一石を投じ、ヴェーバー研究の進展に寄与されたことは間違いがない。またドイツでの調査研究から帰国してすぐに、この小さな研究会の合評会に参加していただいたことに対して心から謝意を表するものである。 文責 古賀敬太

第十八回研究会予告(2023.11.13)
 〖読書会〗
テキスト:山本圭著『現代民主主義ー指導者論から熟議、ポピュリズムまで』
(中公新書、2021年)
発表者:大村一真氏(日文研)

【1】本書の構成
 序章 「民主主義の世紀」
第一章 指導者と民主主義
 1 指導者不在の民主主義論
 2 マックス・ウェーバー
 3 カール・シュミット
 4  ハンス・ケルゼン
第二章 競争と多元主義
 1 ヨーゼフ・シュンペーター
 2 ロバート・ダール
第三章 参加民主主義
 1 参加の時代
 2キャロル・ベイトマン
 3 C・B・マクファーソン
 4 公共性の思想
第四章 熟議と闘技
 1 福祉国家の危機
 2 熟議民主主義
 3 闘技民主主義
第五章 現代思想のなかの民主主義
1 ジャック・デリダ
2ジャック・ランシエール
3 エルンスト・ラクラウ
終章 未来に手渡す遺産として
1 熟議/闘技パラダイムのあとで
2 民主主義の過去から未来

【2】最初に、大村一真氏による本書の詳しい紹介があり、それを受けて議論が展開された。その主な論点を紹介する。
⑴ 本書の特徴は、タイトルが『現代民主主義』である通り、ルソーやトックビルなどの近代的な民主主義思想との関係が記述されていないことである。この点については、好意的な意見が多く、あえて過去の民主主義思想との関係を封印することによって、現代民主主義の諸類型をわかりやすく理念型的に描き出しているというメリットがある。
⑵ 山本氏はドイツ思想の専門的研究者ではないにもかかわらず、第一章をウェーバー、シュミット、ケルゼンから始めている。これについては、ドイツ研究者の中から歓迎する意見が出た。特にウエーバーやシュミットはナチズムとの関係性から、その指導者民主主義や人民投票的民主主義が批判的に論じられる場合が多いが、『民主主義の本質と価値』を書いたケルゼンが紹介されていることは、ケルゼンの民主主義論の重要性を痛感する者にとっては大いなる刺激となった。これは、著者が指導者の在り方を民主主義論の中心の一つにすえているからであろう。ただ「指導者なき民主主義」を志向するケルゼンは、ウエーバーやシュミットの指導者民主主義の流れ、ないし修正としてではなく、完全に対立するものとして位置づけられる必要があるのではないだろうか。憲法の番人を「大統領に求めるシュミットと司法に求めるケルゼンの「憲法の番人」をめぐる論争は、その一例である。
⑶ 現代民主主義の展開を、指導者民主主義、競争的・多元的民主主義、参加民主主義、熟議民主主義、闘技的民主主義に分類し、それぞれの民主主義の特徴を描き出している点は評価に値し、読者の思考を整理するのに役立つ。もっとも個々の点については、疑問点も示された。指導者という場合、人民投票的な指導者か議会選出の指導者か、それともポピュリズム的指導者かはそれぞれ制度的に異なるものなので、もう少し「指導者」についての分類や説明があったほうがよかったのではないか。また競争的・多元的デモクラシーの分類にシュンペーターとダールを一緒に論じることは政治参加の度合いから見て、適切かという意見が出された。更に合意を目指す熟議民主主義と対立を強調する闘技民主主義は、前者も意見の対立を前提し、後者も自由民主主義という対抗者同士の基本的な共通の価値基盤を前提とする以上、接近するのではないかという意見が出された。これは、著者も指摘する所である。またシュミットの視点に立てば、「闘技民主主義」は、シュミットの敵概念を「対抗者」に変え、対立を前面に押し出し、政治の多元性を強調することには意義があるが、自由民主主義という共通の土台が存在しない「神々の闘争」の場合、つまり民族的・宗教的的対立の場合は、闘技的民主主義は機能喪失するのではないだろうか。シュミットとハバーマスとの間をとろうとする闘技的民主主義の戦略は成功しうるだろうか。著者自身は、「闘技的民主主義」を高く評価し、民主主義の名のもとに少数者が沈黙をしいられるのを防ぐことによって、「民主主義が壊れ行くときにこそ、その真価を発揮する」(169頁)と述べている。たしかに日本のような同調圧力が強い体質を持つ国においては適切な指摘である。
⑷ 著者は、第五章で「現代思想の中の民主主義」において、デリダ、ランシエール、ラクラウの民主主義観を扱っているが、ここが今までの論述に比べて、わかりにくいという意見があった一方、排除され、周辺化された人々が声を上げるランシエールの民主主義概念は、アラブの春の民主化運動を読み解く上で重要であるという指摘もあった。
⑸ 次に著者はポピュリズムに対してどのような態度をとっているのであろうか。著者はラクラウやシャンタル・ムフのラディカル民主主義に対して好意的であり、ポピュリズムを民主主義を根源化する運動として積極的に理解する。ただ民衆の真の意思を唱え、多元主義や自由主義を否定する「右派ポピュリズム」ではなく、ヘゲモニーによって抑圧に抗する様々な社会運動ー環境運動、フェミニズム、その他社会的弱者救済の運動などーの間に「等価性の連鎖」をつくりあげていく「左派ポピュリズム」の立場である。山本氏が訳者の一人となっておられ、読書会でも取り上げたシャンタル・ムフの『左派ポピュリズムのために』は、その戦略の標準的な書物である。できれば、ヘゲモニー概念と指導の概念との異同も論じてほしかった。
 ⑹ 最後に20世紀の民主主義、現代民主主義の流れを「指導者から市民へ、大衆への不信と懐疑から市民への信頼と期待」へと変化していくプロセス(10頁)と位置づけることに対する疑問が出されたことを追加しておく。 この流れが逆であるからこそ、民主主義の危機が露呈しているのではないだろうか。
  文責 古賀敬太


 第十九回研究会(2024.1.22)P.M.17:00~
 〖読書会〗
テキスト:田中拓道著『リベラルとは何かー17世紀の自由主義から現代日本まで』
(中公新書、2020年)
発表者:和田昌也氏(同志社大学特任助手)

*参考書 ポール:ケリー『リベラリズムーリベラルな平等主義を目指して』(佐藤正志他訳、新評論、2023年)
  

【1】 本書の構成

第一章 自由放任主義からリベラルへ
第二章 新自由主義vs.文化的リベラル
第三章 グローバル化とワークフェア競争国家
第四章 現代リベラルの可能性
第五章 排外主義ポピュリズムの挑戦
第六章 日本のリベラル
終章 リベラルのゆくえ 

【2】研究会報告(和田昌也記)
 

田中拓道『リベラルとは何か』(中公新書、2020年)に関する研究会が行われた。本書のテーマは、19世紀末から20世紀にかけて登場した「リベラル」について、理論と実践の両側面からその変遷を辿ることであった。 

著者の定義によれば、「リベラル」とは、「価値の多元性を前提として、すべての個人が自分の生き方を自由に選択でき、人生の目標を自由に追求できる機会を保障するために、国家が一定の再配分を行うべきだと考える政治的思想と立場」として位置づけられるものである。それは、資本主義の過剰によって生み出される社会格差が個人の自由な人生を阻害するものであるという認識のもと、格差を是正し、再配分を行う国家の役割を強調する。日本国内の状況は、著者によれば、財政赤字、少子高齢化の急進、格差の固定化の三重苦に直面しているために、リベラルの理念に基づき、いかなる方策が望ましいのかを検討することが喫緊の課題であることが指摘された。 

質疑では、著者がリベラルの支持基盤が、福祉をめぐって極右政党に代表されるような排外主義的ポピュリズムからの攻撃によって次第に狭まってきていると指摘しつつリベラルな価値観を抱く傾向にある高技能サービス業従事者層等の「インサイダー」と、非正規雇用等の「アウトサイダー」が「新しい社会的リスク」に直面し、国家のきめ細やかな福祉を求める点で「連携」しうると点にその突破口を見出している点について、楽観的すぎるのではないか、そもそも各産業の労働者の性向の指摘は妥当か、といった意見があり、また、著者がワークフェア競争国家と同様に「雇用の流動化」を推し進めながら、再分配を通じた是正によって個人の人生の自由な追求を保障していくという見通しを示している点に関して、リベラルの労働観も議論が交わされた。 

とはいえ、著者も指摘するように、リベラルの語が多義語と言いうるほど、その意味内容が実際多岐にわたっている点に関していえば、リベラルの考え方が、その具体的な政策との連関を通じて、明確化された本書が出席者の間で共有できた点が有意義であった。 

第二十回研究会(2024.2.19)P.M.17:00~
 〖読書会〗
テキスト:宇野重規著『民主主義とは何か』(講談社現代新書、2020年)

【1】目次
序 「民主主義の危機」
第一章「民主主義の「誕生」
第二章「ヨーロッパへの継承」
第三章「自由主義との結合」
第四章「民主主義の「実現」
第五章「日本の民主主義」
結び「民主主義の未来」
【議論】

 発表者:【民主主義とは何か】古賀敬太(大阪国際大学名誉教授)

 コメントの要約

 【1】本書は、民主主義を現代民主主義論に限定するのではなく、古代、中世、近代、現代における民主主義論の形態を追跡する本格的な政治思想史の試みである。
 【2】著者は、「 歴史を貫く民主主義の一つの理解ではなく、相互に矛盾する多様な民主主義」を描くことを断っているが、「誕生」、「継承」、「結合」、「実現」という言葉を「」つきであれ用いることによって、結果的に一つの民主主義の歴史的変容があるかのような印象を与えている。
【3】著者の民主主義の定義は、「参加と責任のシステム」(8 頁)というものであるが、責任の説明が不十分であり、誰に対して、どういう責任かがわかりにくい。(66p)したがって民主主義のイメージがはっきりとしない。「参加」を強調するならば、著者が専門とするトクヴィルの「アソシエーション」「タウンシップ・ミーティング」の参加民主主義の伝統、「責任」を強調するのであれば、執行府や立法府に対する市民の責任を具体的に示してほしかった。様々な民主主義の諸類型を描く中で、おのずと著者が理想とする「参加と責任」の民主主義が浮き彫りになるからである。
【4】アメリカ憲法体制においては、純粋民主主義に対して、代議制民主主義や権力分立を説くフェデラリストの「共和主義的」見解が強調されていたが、J・ロックの社会契 約論、信託論、革命権はもっと強調されてよかったのではないか。
【5】著者は、 シュミットが残した課題として、「どうすれば自由を否定することなく。民主主義を実現するのか、議会主義が機能しない時、いかに執行権を民主的に統制するのか?」と述べているが、まさにこの問題こそポピュリズムの問題を考える上で重要な問題である。そのためにも、著者が自由主義なき民主主義の危険性をもっと強調してもよかったのではないか。以下、幾つかの点でシュミット解釈の問題点がある。第一に、 「危機において超法規的な役割を果たす独裁の役割をシュミットが重視した」 (185)とは言えず、シュミットは独裁を法的に位置づけ、非常事態を克服しようとした。第二に、「 民主的な独裁こそが、国家の分裂を回避する唯一の道であるという考えは、シュミットがウエーバーから独特な形で受け継いだものといえる 」とあるが、その文献上の根拠は何か。
【6】 民主主義が成立するための格差の拡大を制限する手法として、著者がロールズの『正義論』(1971)を解釈して、「福祉国家型のリベラリズムを批判し、財産所有の民主主義(富と資本の所有の分散)」によって事前の分配を重視する政策を主張 しているとしているところは、興味深い。
以上、簡単に発表者のコメントを書いたが、本書が啓蒙の書であるにもかかわらず、民主主義の本格的な政治思想史を試みていることは特筆に値する。後の議論においてもこの点は評価が高く、思想史を学んでいる者なら「自分であればどのように民主主義の思想史を書くだろうか」という問いを避けることはできないだろう。(文責 古賀敬太)

 テキスト:『実験の民主主義』(中公新書、2023年) 

発表者:【実験の民主主義】楠本理久(エセックス大学政治学部博士課程)

 【報告・コメントの要旨】

政治理論・政治思想史の専門家である宇野重規氏と『WIRED』日本版編集長などを務められた若林恵氏による約20時間の対話を書籍化した本書は、民主主義をトクヴィルとプラグマティズムという宇野氏の専門から眺めた上で、テクノロジーが急速に発展しつづけている現代においてどのように構想することができるのかを探る一冊となっている。 

 本書を貫く問題関心は大きく分けてふたつある。ひとつは、政治学において民主主義を語る際、選挙や投票という立法権を巡る議論が先行しており、執行権におけるデモクラシーを十分に思考できていないというものである。もうひとつは、社会的紐帯が薄れ、孤立していく人々をどのようにして政治的な主体へと生まれ変わらせることができるのかというものである。本書ではこのふたつの問題に対してテクノロジーの進歩を活用することができるのではないかという視点が提示される。具体的には、ファンダムという、ただコンテンツを受け取るだけではなく、二次創作などを通して自分たちでもコンテンツの生産を行うファンの集団に着目している。その上で、前者の問題に対しては、ファンを集わせるコンテンツの生産をするアニメ制作会社や漫画家といった「公式」とファンダムの関係性が行政府を監視する市民の関係性と類似していること、また後者の問題に関しては、ファンダムにおける知識の共有メカニズムがトクヴィル的なアソシエーションと近いことが指摘された。 

 質疑は本書におけるテクノロジーやファンダムを巡る議論に関して満足な理解が得られなかったこともあり、少し停滞気味であった。これは発表者による要旨が適切にこれらの議論をまとめることができなかったことによるものであるが、同時に本書において重要なテーマであるテクノロジーやファンダムが十分にアクセシブルな形で記述されていたのかという問いを想起するに至った。とはいえ、研究会における議論の中で出た、本書における「トクヴィル的個人主義の問題→解決する手段としてのファンダム→民主主義」という図式に対する、この三つの要素の間の距離に関する指摘や解決策としてのファンダムが政党制やメディアといった既存の政治的チャンネルの改革に比べてどのような優位性をもつのかといった疑問は今後も検討するに値する重要なものであった。 文責 楠本理久 


 第二十一回研究会(2024.3.18)P.M.17:00~
 〖テーマ発表〗
テーマ:「プロイスの民主主義論の特徴と変遷」

発表者:遠藤泰弘氏(松山大学教授)
コメンテイター:長野晃氏(慶応義塾大学法学研究科専任講師)

第二十二回研究会(2024.4.29)17;00~19:00

 【テーマ発表】
 テキスト :マイケル・イグナティエフ 『アイザイア・バーリン』(みすず書房)
 発表者:「マイケル・イグナティエ フ『アイザイア・バーリン』を読む」
 濱真一郎氏(同志社大学教授)
 #濱先生が、バーリンの魅力と意義を十二分に語られますので、期待してください。

*濱真一郎氏の著作 

『バーリンの自由論 ー多元論的リベラリズムの系譜』(勁草書房、2008年

『バーリンとロマン主義』(成文堂、2017年)

* アイザイア・バーリンとの対話を載せた『ある思想家の回想』(みすず書房)も参照して下さい。
  〖報告・コメントの要旨〗

  「マイケル・イグナティエフ『アイザイア・バーリン』を読む」 

当日8名の参加者。(濱、松本、牧野、寺島、村田、松尾、長野、古賀)

  濱氏の発表の後、司会者(古賀)からの質問に対する回答、そして自由な議論が展開された。今回の記録は、いつものことであるがレコーディングしていなかったため、司会者からの質問に対する濱氏の回答のみを紹介する。なおこの記録は松尾哲也氏のメモ書きと発表者の濱氏の追記によって構成されている。なお濱氏の興味深い論稿「政治的自由の複数の人捉えかたーバーリン、コンスタン、ロールズ」を参照。

 

司会者からの質問 と回答

Ⅰ バーリンの民主主義理論の諸問題 濱先生へ 

➀ バーリンの消極的自由(~からの自由)は自由主義に、積極的自由(~への自由)は民主主義に対応しているのか。それとの関連で、バーリンは自由主義を権力からの自由、民主主義を権力への自由と概念的に区別しているのか。 

【回答】 必ずしも区別しているわけではない。バーリンは、積極的自由と民主主義とを結びつけていない。〔松尾先生による記録を拝読した上での、報告者(濱)による追記。報告の当日、この点について松本先生からも質問があった。「民主主義的」自由を積極的自由の一つとして捉える論者もいるが、バーリンによると、19世紀前半の自由主義者たち――コンスタン(1767年-1830年)、トクヴィル(1805年-1859年)、J. S. ミル(1806年-1873年)――は「民主主義的」自由を、自分たちが考える「自由」とは考えていなかった。バーリンも同様である。〕 

➁ バーリンは、積極的自由と消極的自由の相克という基本的立場に立脚し、ミルやコンスタンといった古典的自由主義者の系譜に立ち、民主主義が個人の人権、多様性、寛容を否定することに警告する。とするならば、バーリンにとって民主主義とはいかなる積極的意味をもちえるのか。バーリンは、「二つの自由概念」の中で、「自由主義者にとって支配に参画する積極的権利の主たる価値は、彼らが究極的価値として考えている消極的自由を保護するための一手段たることにある。」(『二つの自由概念』と述べているが、民主主義は権利や自由確保のための単なる手段であるのか。逆に言えば、民主主義以外の方法で個人の自由や権利を守ることができれば、必ずしも民主主義でなくてもいいのではないか。 

【回答】 バーリンは、民主主義を擁護している。その際、参加民主主義ではなく、代表制民主主義を支持している。代表者に政治を担わせて、その結果が悪ければ、(代表者を)変えるといった考えを持っていた。シュンペーター的なエリート民主主義に近い。ただ、専門家が政治的に支配することについては、危険視していた。 

③ バーリンは民主主義を自己実現と見る民主主義概念を批判するが、市民の政治参加は自己実現や市民的徳の契機から切り離されないのではないか。イグナティエフは、参加民主主義に対するバーリンの批判との関係で、ルークスやポパーの見解を紹介している。 

「左翼の批判者たちは、民主主義と政治参加に対するバーリンの懐疑主義的な態度をとりあげた、「参加型の民主主義」の考えが1960年代のイデオロギーの天空を通過しはじめたところで、オックスフォードの若いチューターであったスティーブン・ルークスは、「二つの自由概念」は有権者の無関心の弁明と受け止められないかかもしれないと主張した。これに対してバーリンはこう答えた。自分はリベラル派と同じくらいに市民権の意義を信じるが、市民権が人間をよりよくすると信じようとは思わない。カール・ポパーは、バーリンの講義を祝福する手紙を書いたが、人間が自己を開放し、克己を達成するというカント的な考えを攻撃したことを批判した。」(イグナティエフ、250頁) 政治参加への自由を自己実現と切り離そうとする点において、バーリンは参加民主主義のみならず、アーレントやテイラーとも対立することになる。 

他方、バーリンは、「ロマン主義における意志の賛美」(『バーリン選集4』おいて、 「積極的活動の多様性をあまり抑えてはならないとするならば、また対等な立場にある人間の目標をあまり多く、不満足の状態に終わらせてはならないとすれば、ここから次のような立場に至るであろう。最低のところは道徳的に耐えがたいような選択は避け、最高の目標としては共同目的を追求するための積極的な連帯を促進していくような社会構造を創出すること、それが人間が実現を期待できる最善のことであるという結論に。」(284-285頁)と述べている。この最高の目標をバーリンは追求したのか。 

【回答】 バーリンは、実質的な自由と形式的な自由とを分けている。そのなかで、形式の自由を重視する点で、丸山眞男と共通しているところがある。自由の実質的な内容を形成することよりも、自由の形式にこだわることが重要だとバーリンは考えていた。 

またカントについては、「人間を道具として扱わないこと」などは評価している。しかし、カントの自己克己の概念が実践哲学に流入してしまうことについては、警戒していた。それは、自己克己できない人を抑圧してしまうおそれがあるからである。 

➃ バーリンは、民主主義をルソー的な一元論的民主主義に対して多元主義的民主主義の概念を提唱した。彼は、「ある思想史家の回想」において、「あなたの多元主義の理論は、民主主義の問題にどのような支援を与えることができたか。」という問いに対して、「民主主義が少数派や個々人に対して抑圧的になることがあります。民主主義は多元的である必要はなく、一元的になることがあります。民主主義それ自体としては多元主義ではない。私ははっきりと多元主義的な民主主義を信奉しています。協議と妥協を前提とした民主主義です。コンスタンはジャコバン支配下における民主主義の専制について非常にうまく書きました。」と述べている。 

【回答】 近代からデモクラシーが始まったとするのが、バーリンの見解であり、古代人の自由の概念(ルソー)を近代に持ち込むことについては危険視していた。また、近代の民主主義は、多元主義的な民主主義になるとバーリンは考えていた。 

多元論に及ぼしたロマン主義の影響 

バーリンの多元主義思想的バックボーンになったのが、シュタールに代表されるロマン主義である。バーリンは、「ロマン主義における意志の問題点」(バーリン選集4)におて、「ロマン主義者は人間の目的が多数あり、しばしば予見不可能で、その内のいくるかは互いに矛盾していることを明らかにした。---このことは認めたとしても、ロマン主義の非合理主義の行き過ぎを称賛したとか、それを許したとかいうことにならないであろう。」(286頁)と書いているが、健全なロマン主義とファシズムに至る悪しきロマン主義はどのように区別されるのか。 

【回答】 

 バーリンは、健全なロマン主義とそうではないロマン主義についてはっきりと区別していないし、また区別する基準を持っていない。 

⑥ 新自由主義と民主主主義 

 バーリンは消極的自由を強調することによってレセ・フェールの支持者として批判されたこともあった。しかしバーリンは、『回想』の中で「私は、積極的自由の歪曲は消極的自由の歪曲よりも大きな破滅をもたらしたと思いますが、消極的自由がレセ・フェールに転用されれば、おそるべき不正と苦悩をもたらしたことに深く影響されたことを認めます。」と述べている。新自由主義が経済的な格差を広げて、不公平な社会秩序をもたらすことにバーリンはどのように対抗策を考えたのか。 

【回答】 

 バーリン自身がロールズと論争したら、何か判明したかもしれない。ただバーリンはルーズベルトのニューディールを支持しているので、新自由主義に反対であるのは明らか。 

⑦ ナショナリズムと民主主義 

バーリンは、ナショナリズムと民主主義ないし自由主義との関連をどのように考えていたのか。バーリンは『ある思想史家の回想』において、「いったん、国民という無謬で人格のない権威を引き合いに出すと、それは党や階級、あるいは教会にまで広がり、そして抑圧への道が開かれる。」(154頁)と述べているが、歴史的・民族的伝統を生かしつつ、排他的なナショナリズムではない民主主義とは一体何なのか。バーリン自身が、ユダヤ的、ロシア的、イギリス的なアイデンティティをもっており、イグナティエフは、「アイザイアのユダヤ性は、もし個人が真に自由であるためには、文化的な帰属性を確保しなければならないことを、明白にした。」(205頁)と述べている。ヴィコやヘルダーのロマン主義の伝統に対する傾倒は、多元主義的民主主義の形成にどのような影響を及ぼしたのか。 

 【報告者による追記】研究会当日⑤の質問への回答でも述べているように、「バーリンは、健全なロマン主義とそうではないロマン主義についてはっきりと区別していないし、また区別する基準を持っていない。」バーリンは、ナショナリズムについても、二つのナショナリズム(「曲げられた小枝」としてのそれ(これは曲げられた反動として激しく跳ね返る)と、非攻撃的なヘルダー的なそれ)を区別したが、非攻撃的なヘルダー的なナショナリズムが現実のものとなる可能性は低いとみている。なお、早尾貴紀教授は、バーリンやヤエル・タミールの「リベラル・ナショナリズム」を「リベラル・シオニズム」と呼び、その問題性を指摘している。〕 

 ➇ 多元主義・相対主義と人権 

 イグナティエフは、なぜ人権や自由が最終的な価値なのかという問いにおいて、「バーリンのその後の学究活動は、適切な答えをしめさななかったとしても、こうした問いをオープンにした。」(310頁)と述べている。多元主義や相対主義の立場に立ちつつも、なお人権や消極的自由を最大の価値とみなす根拠は何か。 

【回答】 

 バーリンは、「ディーセント(decent)」の概念を重視するが、そのディーセントの根拠を示さない。「なぜなら、それは、ディーセントであるから」とトートロジーになってしまうが、大事なものは、トートロジーにしかならないのではないか。 

⑨ 報告者の問い 

 「バーリンは市民の政治からの自由を擁護すると同時に、「立案者や専門家による支配としての民主主義」と対比される「支配としての民主主義」を擁護している。(イグナティエフ、210頁)ここに矛盾はないのか、あるいはここに彼の民主主義理論を理解するための鍵があるのだろうか。」この問いに対して報告者自身はどのように答えられるのか。 

【報告者による追記】当日、どのように回答したか記憶が定かでないので、以下では事後的に考えたことを記している。バーリンは、「民主的主義的」自由が「自由」であることを、19世紀初頭の自由主義者たちに倣って否定する(市民の政治からの自由を擁護する)。それと同時に、彼は、スターリンが言うところの「人間の魂の技師」による人間の「治療」を危険視するがゆえに、市民の政治参加を部分的に擁護する。よって、ここに矛盾はある。この矛盾については、今回の論文集での拙稿において検討したい。〕
 全体討論では、バーリンとアレントのシオニズムについての相違点、バーリンとテイラーの消極的自由をめぐる論争、バーリンのロマン主義理解とシュミットのロマン主義理解の相違、バーリンのミル理解などについての議論があった。 

 

 

第二十三回研究会予告(2024.5.27)17:00~19:30

 【テーマの発表】

  発表者: 長野晃(慶応大学法学研究科専任講師) 

タイトル:「カール・シュミットとポピュリズム」

コメンテイター:松本彩花(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員)



 第二十四回研究会(2024.6.24)17:00~19:30
   【合評会】
 細谷雄一・板橋拓己編『民主主義は甦るのか?ー歴史から考えるポピュリズム』
 ( 慶応大学出版会、2024年)
  本の構成  第一部「戦間期ヨーロッパの教訓」
第二部「戦間期日本の教訓」第三部「現代における危機」

コメンテイター:第一部:大村一真(日文研)

第二部:未定 第三部:楠本理久(エセックス大学大学院)

*執筆者の中から長野晃氏(慶応大学専任講師)と高橋義彦氏(北海学園准教授)が参加されます。

第二十五回研究会(2024.7.29) 17:00~19:30
  【テーマ発表】
発表者:松尾哲也氏(大阪大学人文学研究科准教授)
論題:「レオ・シュトラウスのリベラル・デモクラシー論」

  ー 『リベラリズム 古代と近代』を中心としてー

【報告・コメント要旨】

最初に「レオ・シュトラウスのリベラル・デモクラシー論ー『リベラリズム 古代と近代』を中心として」というタイトルで松尾哲也氏から報告があった。報告の小項目は
1 シュトラウスとワイマール共和国
2デモクラシーの現実的課題
3リベラル・デモクラシーと対峙する学問の課題
4リベラル・エデュケイションについて
5リベラル・デモクラシーに対するシュトラウスの議論について

 1 において松尾氏は、まずユダヤ人であるレオ・シュトラウスにとってワイマール共和国のリベラル・デモクラシーが宗教の私的領域の自由を保障することによって、私的領域における反ユダヤ主義を阻止できず、ユダヤ人は不安定な立場におかれたと主張する。またワイマールの大衆民主主義によってナチズム独裁が生み出されてきたと主張する。
2において松尾氏は、シュトラウスの「デモクラシー」への批判は、大衆批判と投票機入所の秘密性に向けられていると主張する。リベラル・デモクラシーにおいては主権を持つ個人は、良心を持つ個人であるのに対して、大衆は衝動的に行動し無責任な塊にしか過ぎない。またデモクラシーは本来徳ある人々の支配であるが、秘密の投票においては好き勝手な無責任な投票が行われる。またシュトラウスは、多数者による少数者に対する圧政の危険性を恐れていた。シュトラウスのデモクラシー論は、公共精神や徳が欠如した大衆に対する不信に満ちている。
3の「リベラル・デモクラシーに対する学問の課題」においては、シュトラウスにとってデモクラシーとは徳を身に着けたアリストクラシーの体制であると主張する。政治学は、デモクラシーのあるべき姿と現実の姿を照らし出す責務があるが、科学的を主張する没価値的な政治学はこの役割を果たすことができない。
4の「シュトラウスの態度表明」と5の「リベラル・エデュケイションについて」では、デモクラシーは「人間的卓越性」を前提にしているので、デモクラシーの危機は、人間的卓越性の危機である。シュトラウスは、デモクラシーの危機を克服するために政治的教育を重視する。ただそのリベラル・エディケイションは国民全般に対するものではなく、人民の代表者たるエリートに対するものである。そのリベラル・エディケイションは、「偉大な精神たちが残した偉大な書物を適切な注意を払って研究すること」であり、大衆デモクラシーを「本来の意味のデモクラシー」にする梯子であった。この教育によって、一般的な意見や流行に流されない知的・道徳的特質を持った人々が形成されるのである。またシュトラウスはliberal であることを強調するが、liberalな人間は専制や独裁を嫌う共和主義者であり、古典的な政治哲学は本来の意味でliberal である。
このようにシュトラウスが言うリベラル・デモクラシーのリベラルとは本来の意味における自由主義ではなく、共和主義的な特徴を持った概念である。同時に「立憲主義」とも親和的である。
 最後の6の「リベラル・デモクラシーに対するシュトラウスの議論をめぐって」において、松尾氏はシュトラウスの大衆デモクラシー批判は、公共精神・良心を欠如し、偏見を持ち無責任な大衆に対する批判と結論づけている。またシュトラウスは「善き政治秩序を探求する政治哲学を再生させることによって」デモクラシーの理想を追求していると論じている。最後に松尾氏は、シュトラウスとポピュリズムとの関連において、シュトラウスはポピュリズムとは異なり、卓越性を有する少数のエリートを重視し、権力の分立、抑制・均衡という立憲主義を奉じる点において、ポピュリズムの対極にあると位置づけている。
  松尾氏の報告の後、寺島俊穂氏からコメントがあった。その項目は以下のとおりである。
  1 シュトラウスのもどかしさ
  2 シュトラウスはリベラル・デモクラシーを擁護しているのか
   3 リベラル・エデュケイションは少数に限って良いのか
  4シュトラウスの大衆批判に問題はないのか
  5 ローマが燃えているのに閉居しているのは誰だ
   6  人間論と政治論をどうつなげるか

 

1において寺島氏は、シュトラウスが明確に彼自身の政治哲学を展開していないことに対して感じる「もどかしさ」を明らかにした。
 2の「シュトラウスはリベラル・デモクラシーを擁護しているのか」において寺島氏は、シュトラウスのリベラル・デモクラシーは貴族主義的なデモクラシーであるが、アリストクラシーとデモクラシーは古典的政治哲学では区別されてきたのではないか、シュトラウスは、アリストクラシーとデモクラシーの混合政体が望ましいとみなし、徳を重視し人間的卓越性を求める点において、共和主義者ではなかったかと疑問を呈している。
 3の「リベラル・エデュケイションは少数者に限って良いか」において、リベラル・エデュケイションを少数者に限定し、かつその内容を知的・道徳的に向上していく教育に限定することを批判し、リベラル・エデュケイションは万人に対して開かれ、かつ感受性や思考能力を陶冶することに目的があると指摘する。
 4の「シュトラウスの大衆批判に問題はないか」において寺島氏は、シュトラウスのように人間をエリートと大衆のように二分するのではなく、すべての人間が努力して、人格を陶冶していく必要性を論じている。
 5の「「ローマが燃えているのに閉居している」のは誰だ」においては、シュトラウス自身が、大衆民主主義の問題に限らず、戦争や全体主義、人種主義や帝国主義、ジェノサイドや民族浄化、差別や暴力のような現代の危機にどのように取り組んだかを問いただしている。寺島氏は現代の諸問題と取り組むに際して、専門化した政治科学とは違って政治哲学には「政治社会のあり方を長期的な視点で構想し、過去の叡智との対話を通して人間のあり方を根底的にとらえる」という利点があると主張する。
 最後の6の「人間論と政治論をどうつなげるか」において、自然的正義を求めるシュトラウスの政治哲学を、特定のエリートの育成に限定するのではなく、常日頃から自分に矛盾せず、誠実に生きる人間を育む市民文化を形成する方向で活かしていくことを提案している。 

 





 

第二十六回研究会(2024.8.26)17;00~19;30 
  【テーマ発表】
発表者:濱真一郎(同志社大学教授)
論題:「I・バーリンー価値多元論、リベラリズム、民主主義」(仮題)

コメンテイター:山岡龍一氏(放送大学教授) 

【報告・コメント要旨】

【1】最初に濱氏から「アイザイア・バーリンの民主主義論の両義性ー民主主義的自己支配への警戒と多元論的民主主義論の擁護」と題して研究報告があった。その構成は以下のとおりである。
 Ⅰ バーリンを民主主義者と呼ぶことはできるか
Ⅱ バーリンの民主主義のとらえ方
 (バーリンのルソー解釈、民主主義の起源、「制度」としての民主制)
Ⅲ 民主主義的自己支配への警戒
(「民主主義的な自己支配」というルソー的な積極的自由への警戒、)
Ⅳ 多元論的民主主義の擁護
(バーリンの民主主義論の両義性、価値多元論と民主主義)
Ⅴ バーリンの民主主義論と「個人」の確立
 バーリン「民主主義、共産主義、個人」

最初に濱氏は、「バーリンは民主主義者と呼ぶことができるか」という問いをたてる。「二つの自由概念」でよく知られ、「消極的自由」の提唱者として知られているリベラリストであるバーリンを民主主義思想の文脈で論じることの困難を自覚してのことである。実際、バーリンが民主主義を本格的に論じたものは極めて少なく、またバーリンについての研究書もほとんどこの問題を扱っていないからである。濱氏は、問題の困難性を覚えつつも、この問題に取り組み、バーリンが拒否する民主主義のあり方と評価すべきものとを明らかにすることを試みる。
 濱氏によるとバーリンがモデルとする民主主義はJ・J・ルソーの『社会契約論』である。しかしバーリンは一方において、ルソー的民主主義を、民主主義を積極的自由と結びつけ、人民の集団主義的自由として構成し、個人の自由を否定するる「全体主義的な民主主義」と解釈する。これは、タルモンと同じ見解である。他方バーリンは、ルソーの中に不可譲の権利を擁護する民主主義を読み込んでおり、この解釈は、バーリンの多元的民主主義の概念に流れ込んでいくことになる。後者は前者と異なり、同質性や価値の一元制ではなく、相対立する価値の多元性を前提としており、個人の人権保障と不可分である。
この点について、濱氏は「バーリンが一方において民主主義的自己支配というルソー的な積極的自由が抱える危険性に警戒しつつ、他方において多元的民主主義を擁護している」と述べている。19世紀前半のB・コンスタン、A・トックヴィル、J・S・ミルといった自由主義者たちは、ルソーの民主主義的自己支配が個人の自由や権利を侵害する危険性を見抜いていたので、こうした19世紀的自由主義の遺産を継承するバーリンが、ルソー的な集団主義的民主主義を否定するのは当然である。それに対して、濱氏によれば、バーリンが擁護する民主主義は、「多元論的な民主主義」であり、価値の多元性が前提とされているので、多数者が少数者に対して一元的な価値を強制する必要はなく、そこでは「協議と妥協を前提とし、様々な個人の権利を認める民主主義」が可能となる。なお濱氏は、バーリンにとって制度としての「民主制」は、コンスタンの「代表制」やシュンペーターの「競争的民主主義」に親和的であると主張する。
最後に、濱氏は「多元論的民主主義」の根底にある個人の不可侵性の起源を追跡して、ロシアの19世紀の社会主義者ゲルツエンに求めているが、それはゲルツエンが一元論的な世界観の危険性を認識し、多元論的な立場に立っているからである。
総じて、 「アイザイア・バーリンの民主主義論の両義性ー民主主義的自己支配への警戒と多元論的民主主義論の擁護 」の民主主義論は極めて説得的であり、必ずしもバーリンが民主主義に対してトータルに否定的ではなかったことを説得的に示している。それ故に於て、私たちは、バーリンの民主主義論において語りうるし、語る必要がある。
【2】コメンテイターの山岡氏のコメント
 目次:
  Ⅰ 全体への見解
  ①全般への感想 ②問い:バーリンを民主主義者と呼ぶことはできるのか
  Ⅱデモクラシーの意味
 ①デモクラシーの多義性 ②デモクラシーのとらえ方
③ バーリンのデモクラシー論を扱う際の根源的困難性
 ④ 濱論文の弱点
⑤ Democracy,Communism and and the Individualの再検討
➅ マルクス主義批判としてのデモクラシー論
Ⅲ 両義性をめぐって
① ルソーの両義性
② ロマン主義の両義性
Ⅳ バーリンの積極的理論
① 多元主義的デモクラシー
② 三つのアイデンティ
③バーリン論のデモクラシー論から何を学ぶべきか?
Ⅰ 山岡氏は、「バーリンを民主主義者と呼ぶことはできるだろうか」という問いを提出しているが、こうした問いの背景には、バーリンの民主主義論が現在まで研究対象とされてこなかったことや、バーリンが民主主義について書いた著書や論文が皆無に等しいという事情がある。
 しかし、山岡氏は、濱氏の積極的な多元主義的民主主義論を容認したうえで、個々の点について疑問を呈している。その二人の議論を一部紹介する。
 ① 山岡氏:「濱報告はバーリンのまとまった議論に依拠せず、対談や書簡に依拠している。」
  濱氏:バーリンがデモクラシーについてまとまった議論をしていないため、バーリンが参照した可能性のある文献やバーリンの書簡を参照したが、論文ではそのことは前もって記載するつもりである。
② 山岡氏:濱報告は、バーリンがデモクラシーについて論じた数少ない論稿「デモクラシー、社会主義、個人」に依拠している。この論稿では、バーリンは「不可謬の権利」を擁護するルソーについて論じているが、濱報告は全体主義的デモクラシーの擁護者としてのルソーという、ヤコブ・タルモンのルソー理解とバーリンのルソー理解の類似性を指摘する。この点、矛盾はないのか。
 濱氏:タルモンとバーリンのルソー解釈の共通性を強調したが、その違いにも言及すべきであった。
③ 山岡氏:バーリンは『自由とその裏切り』(2002年)で、ルソーについて言及している。そこでは、理性主主義者ルソーと、文化的ペシミストで、二―チェの先駆者としてのルソーである。
濱氏:その文献は読んでいたが、ルソーの両義性についての認識は不十分であった。
④ 山岡氏:濱報告は、バーリンが擁護する多元的デモクラシーの根底に、理想の追求のために個人の自由を犠牲にしてはならないというアレクサンデル・ゲルツェンの影響を見出しているが、バーリンのアイデンティティの源泉には、ロシア的なものだけではなく、英国的かつユダヤ的な要素があるのではないか。
 濱氏:今回ロシア的要素を中心に論じたが、今後ユダヤ的・英国的要素についても検討したい。
  ちなみに山岡氏はバーリンの多元論的デモクラシーの根底にあるものを「人間の条件」と評しているが、これは価値相対主義を越えた人間存在の根幹に触れるものである。この点については山岡龍一「規範理論家としてのバーリン」(『思想』、2021年6月号)における「リアリティ感覚」を参照のこと。
  文責:古賀敬太


第二十七回研究会(9:30日,17:00~19:30 )
  【テーマ発表】
発表者:長谷川一年(同志社大学教授)
論題:「ジョルジュ・ソレルー直接行動の論理と心理」

コメンテイター:吉澤英樹氏(南山大学准教授) 

【報告・コメント要旨】

最初に、長谷川氏から以下の順序で、発表があった。

 Ⅰソレルとその時代
 19世紀ヨーロッパの政治的・思想的状況
 19世紀の合理主義、実証主義、科学主義に対する反逆と生への回帰→ベルグソンへの傾倒、政治制度としては第三共和政のブルジュワ的議会制民主主義の堕落に対する批判→
ジョン・ジョレスに対する批判、議会主義的社会主義は資本家も労働者も堕落させる。ソレルは、社会主義陣営の中では議会主義派(ゲード派)に対してサンディカリズム(反ゲード派、特に革命的社会主義労働者党のアルマニスとに位置する。
Ⅱ労働組合への注目
ソレルは、歴史的決定論の社会主義を拒否、マルクスの直接行動・自主管理(『ゴータ綱領批判』)を支持し、国家主義・中央集権(『共産党宣言』を支持。
Ⅲ 『暴力論』の思想
 ソレルの『暴力論』はオプティミズムを退け、ペシミズムの立場に立ち、人間の悪や腐敗に対する絶えざる闘いを説く。またソレルは神話とユートピアとの関係において、合理的な産物であるユートピアを斥け、決定的な闘争に参加し、現状を絶えず作り直していく
神話に与する。そこにベルグソンやヴィコの思想的影響がある。「暴力論」の最も重要な争点はフォルスとヴィオランスの相違である。ソレルは国家権力、強制力を意味する
フォルスを退け、国家によって暴力で対抗する。彼は、マルクスが説くプロレタリア独裁を批判するが、マルクスの階級闘争の教義を信じ、資本家と労働者の和解、その制度的形態としての民主主義的議会主義を斥ける。

 しかし果たしてソレルが説く暴力とはいったい何か。興味深いのは、ソレルがブルジョワジーのフォルスによって引き起こされた残忍な革命を全く評価していないことである。それでは、国家の強制力とは異なる暴力(ヴィオランス)は物理的な暴力かそれとも道徳的な暴力か、それ以外のものか。ソレルは暴力の形態としてゼネストを重要視しているが、そこには、敵の粉砕、壊滅と共に、戦闘に酔いしれる栄光や英雄主義という崇高な感情が必然的に伴っている。ソレルにとってゼネストを中心とする社会主義は、「強大な闘争の条件に釣り合う崇高の感情を魂の奥底に目覚めさせる」のである。ソレルがゼネスト=暴力の意義を原始キリスト教における殉教のヒロイズムに重ね合わせていることは重要である。またそれとの関係でソレルが労働者に芸術家の姿を見ていることは興味深く、その点は次の吉澤先生の報告につながっていく。



次にコメンテイターの吉澤氏から「ジョルジュ・ソレル「芸術の社会的価値」(1901)に見るアーティストとしての生産者」と題しての報告があった。

ソレルの「芸術の社会的価値」が生まれた背景には1889年にアドルフ・タラバンによって創設された「社会芸術クラブ」の活動があった。このクラブの目的は、第一に大衆に届く環境で様々な活動を展開し、芸術をすべての人の手に届くところに置くこと、第二に、労働者階級の中での芸術実践を促進すること、第三に大衆的芸術実践の試みを定着させることにあった。
こうした背景を持つソレルの芸術論の特徴としては、第一に統一的な美的カノンの存在を否定する点で相対主義的であること、第二に、作品の教育的価値を否定すること、第三に、芸術の鑑賞者から創造者への移行、第四に旧世代と新世代の芸術ジャンルの相違、つまりアカデミックな芸術から産業芸術の復興である。第四点は、新しい芸術ジャンルとしての労働が生じたことである。
 こうした立場からするならば、ソレルにとって芸術至上主義的な価値は否定され、労働者、ないし生産者の中から生み出される芸術が賞賛されることになる。

【報告に対する議論】

ここでは、長谷川報告に対して出された重要な争点を長谷川氏自身がまとめたものをそのまま転載しておく。
【吉澤先生からの質問】

1 ペルーティエとソレルとの思想的関係について

→ソレルはペルーティエの著書『労働取引所の歴史』に序文を寄せており、サンディカリズムに接近したのもペルーティエに対する共感があったから。しかし、サンディカリズムの文脈を離れて、両者の思想をつき合わせる作業はまだ行っていないので、これからの課題としたい。

2 ソレルの崇高概念について。たとえばワーグナーのような「美的なもの」を想定しているのか?

→これも詳細な検討はこれからだが、思想史的にはバークからカントへの系譜、フランスではドニ・プロの『崇高』などを参照すべきかと思う。均衡・調和としての美ではなく、崇高はダイナミックな運動と結びつきやすく、『暴力論』のなかには「美的なもの」への関心が潜在していると考えている。

3 ソレルの知識人批判の含意について。ソレル自身も逆説的に知識人として振舞ったことにならないか?

→そのような見方もできると思う。ジュリアン・バンダは『知識人の裏切り』でソレルを激しく攻撃したが、知識人の政治的コミットメントを批判したバンダ自身が、1930年代になると戦闘的民主主義にコミットしたことも象徴的。知識人と時代的状況の関連については今後も検討したい。またソレルの言う知識人は、いわゆる大学の学者だけでなく、当時増えつつあった中間階層を含んでいる。ある種のルサンチマンを抱えたこの階層が社会主義の担い手になっているという認識は、たとえば『群衆心理』の著者ル・ボンにもあって、ソレルはル・ボンの社会主義批判にある意味で共感すらしている。

 

【寺島先生から】

今日における労働組合の現状を考えると、ソレルの暴力ないし直接行動論(ゼネスト)のアクチュアリティはどう考えられるか?

→労働組合の置かれている状況は厳しいものがあり、ソレルが期待したような行動主体にはなっていない。直接行動をゼネストに限定せず、たとえばデモにまで拡大すると、原発反対や安保法制反対のような動きを含めて、直接行動のアクチュアリティを考えることができるかもしれない。

 

【佐野先生から】

ソレルのサンディカリズム運動に対する現実的な影響はあったか?

→ほとんどなかったと言える。労働運動史の研究者は一致して影響を認めていないと思う。その意味でジョレスがソレルのことを「サンディカリズムの形而上学者」と呼んだのは示唆的である。

 

【上田さんから】

Forceとviolenceはそれほど明確に(二項対立的に)区別できないのではないか。『暴力論』のなかでも、労働者の側のForceを認めている箇所もある。また、アナキズムは個人主義的で国家否定の思想であり、ソレルの思想はアナキズムと一線を画すと報告されたが、『暴力論』のなかで説かれているモラルはかなり個人主義的ではないか。

→前者については今後精査する必要がある。後者については、世紀転換期にデュルケームの『自殺論』やル・ボンの『群衆心理』などが刊行され、精神的紐帯の弛緩が問題化されている状況にあって、ソレルも労働者の連帯や自己犠牲といった精神的紐帯の再生を模索していたという側面を強調した。ストライキが喚起する感情には個人的な次元もあるし、(たとえばスト破りは許さないといった)集団的な次元もあるだろう。

 

【和田さんからの感想】

 アレントの観点からは暴力を肯定することは許容できないが、今日の報告で暴力の意味するところが通常と違うことが理解できた。
 

【村田さんからの感想】
ミルの古代ギリシア理解との関係で、ソレルの『ソクラテス裁判』の内容に興味がある。

以上、長谷川報告、吉澤氏の報告、コメント、そして参加者の議論の要約である。今後、
民主主義の危機とその克服というテーマの中に、ソレルの議会制民主主義批判、崇高な感情によって生み出される直接行動の論理と心理をどのように位置づけ、評価していくかが課題となる。シュミットが『現代議会主義の精神的状況』において議会制の堕落に対して、ソレルのサンディカリズムの神話を対置していることは興味深い。単に制度論の次元においてではなく、精神史的にベルグソンの「生の躍動」に支えられた直接行動に対抗するためには再度、議会制民主主義の精神を取り戻すしかないのではないか。それはシュミットによれば妥協や和解、調停ではなく、公開性における活発な討論であり、権力の分立に対する信念である。なおバーリンのソレル論「ジョルジュ・ソレル」もソレルの英雄主義、生命の躍動とそれを死滅させる合理主義批判を評価している点において重要である。

リスト教信仰はどのような役割を果たしているか。

第二十八回研究会(2024.10,28))
  【テーマ発表】

発表者 千葉眞(ICU名誉教授)
テーマ:「CH.テイラー-----民主主義・承認の政治・多文化主義」
コメンテイター:高田宏史氏(岡山大学教育学部准教授)

 1   最初に千葉眞氏から、以下の順番で報告があった。

はじめに 民主主義における包摂と排除の力学

  テイラーの民主主義論の中心的論稿は、”A tension in Modern Democracy”,2001.この論文は近代民主主義における包摂と排除の力学を考察したものである。排除の傾向は、共通のアイデンティティが、エスニシティ、ジェンダー、宗教、文化、言語における少数派、移民、難民を政治的共同体から締め出す危険性である。そこからテイラーの民主主義論の主題として「多文化主義」や「承認の政治」が生まれてくる。千葉氏は、またテイラーの民主主義論が、自由民主主義を中核としつつも、市民の政治参加や愛国心を強調する「市民的共和主義」、トクヴィル型ないしヘルダー型のリベラリズムによって構成されていると主張する。千葉氏は、テイラーが「トクヴィル主義者」であると自分のことを重視し、「その理由は、共同体的感覚、心の習慣、習俗、政治文化の重要性を認識するからであり、そのあたりはロバート・ベラーと共通するところである」と述べている。
2 承認の政治と二つのリベラリズム
  テイラーの承認の政治の根底にあるのは、「本来性」(authenticity)の概念であり、「個々人や種々の集団における自己主張やアイデンティティの承認の要求にある規範概念」である。しかしこの概念は、個人や民族の自己実現を主張する中で、排他的・抑圧的な機能を果たす危険性を内包している。承認の政治を追求するテイラーは、「平等な尊厳の政治」(the politics of equal dignity)を「差異の政治」(politics of difference)によって補完し、修正することを強調する。
  千葉氏は、自由概念についてのバーリンとテイラーの相違を論じ、テイラーがバーリンの消極的自由概念を「自由の実現や行使」の側面が看過されていると批判し、より高次の自己や願望の実現を説く点に二人の自由概念の相違を見ている。
  テイラーはバーリンの個人主義的リベラリズムに批判的であるのみならず、ジョン・ロールズやロナルド・ドウォーキンなどの中立的な「義務論的、手続き的自由主義」にも批判的である。テイラーは、この種のリベラリズムが「市民の徳性」や政治参加に消極的であることを批判し、個人の選択や自由を重視する民主主義か、市民の参加や統治を強調する民主主義化かの対立軸を示し、「両者とも自由民主主義の過去二世紀を通して存在しており、今日でも存在している。ただバランスが大きく傾いてしまったので、市民の定義が完全に忘れられてしまう危険性がある。」と述べている。そこには、「義務論的リベラリズム」と差異を重視する「多文化論的リベラリズム」の二つのリベラリズムの相克が存在する。千葉氏は『マルチカルチャリズム』におけるマイケル・ウォルツアーの二つのリベラリズムに関する見解を紹介し、相互の関係について触れている。
  千葉報告からすれば、民主主義に親和的なのは、義務論的・手続き的リベラリズムではなく、多文化主義的リベラリズムであることは明らかであろう。テイラーは、「公平で差異を考慮しないと想定された社会は非人間的である(アイデンティテイを抑圧する)ばかりでなく、潜在的で無意識な形において、それ自体きわめて差別的なのである。」と述べている。しかし、ハバ―マスがテイラーの試みを、「リベラリズムの諸原理それ自体を攻撃し、近代的な自由概念の個人主義的な核心を疑問視することになる」と批判する意見にも耳を傾ける必要がある。
 千葉報告は、多文化主義との関係でカナダやケベック州の政策にも触れているが、ここではその点には触れることはしない。
 総じて民主主義論の視点からみた時に、テイラーの共和制的リベラリズムと多元主義的な差異のリベラリズムはどのような関係にあるのか、また多元主義的リベラリズムはなぜ民主主義の活性化をもたらすのか、その活発化は議会主義の活発化か市民運動の活発化か、また相互の関係はどうなっているのかについての疑問を抱いた。またトクヴイルの民主主義論とテイラーの民主主義論の類似性に関して、より詳しい説明があったほうが説得的ではないだろうか。

2  高田宏史氏のコメント

高田氏は、まず報告者に二つの質問をし、現在の「右翼的ポピュリズム」による民主主義の危機を念頭に置きつつ、5点においてテイラーの民主主義論の意義と問題点を描き出している。千葉報告にはない、テイラーの新たな民主主義の課題がそこに示されている。
<報告者に対する二つの質問>
【1】テイラーの言う「リベラリズム2」とロールズの「政治的リベラリズム」との関係はどうなるのか。つまり他の包括的な教説との「重なり合う合意」を志向するロールズの「政治的リベラリズム」と「リベラリズム2」とはどの程度ことなるのか。
【2】「排除の力学」と「共通のアイデンティ」そしてテイラーの「実践的課題」の関係について詳しく説明をしてほしい。(記録係の認識としては、民主主義に必要な共通のアイデンティテイが排除をもたらすのではなく包摂をもたらすためには何が必要かという問いも含まれていると思われる。)

<テイラーの民主主義論に関する5つの指摘>
【1】「民主主義」にまつわるテイラーの現状認識
 「民主主義」とは、エリート支配を否定する国民全体によって統治される真に平等な「目的論的概念」であり、それゆえに達成することができないばかりか、逆に退行現象、後退現象が生じる。それは今日、投票による政治参加への無力感や既存のメディアやSNSによる動員や社会の分断として現れている。テイラーは、「私たちは、民主主義の後退という時代に生きているだけではなく、その終着点は遠ざかっているのだ。しかもその衰退は自己増殖しているように見える。それを止める方法を見出すのは難しい。」と民主主義に対する危機意識を露わにしている。こうした民主主義の危機の原因として、「市民による自己統治」を信用せずに「テクノクラート支配」を支持する潮流があり、それは「新自由主義」の負の遺産であり、包摂ではなく、排除を生み出し、その反動として「代議制」への根本的な不信が生じてくる。
【2】「排除の力学」と「共通のアイデンティティ」の問題
 テイラーは、民主主義には明確な共通のアイデンティと連帯の感覚が必要であることを承認する。投票、納税、あるばあいは徴兵への参加、そして財の再分配のためには、アイデンティティや連帯感が必要とされるからである。しかしこうしたアイデンティティや連帯の強調は、人種、民族、道徳性に基づく排除という危険な結果をもたらしかねない。「道徳性」の排除とは、例えば、多くの西洋社会における外国人排斥運動が、外国人を単に民族の違いとしてだけではなく、同性愛論嫌悪者や反フェミニストとして人権を否定する人々として描くことに現わされている。このように排除の力学は、「道徳的な憤り」をもって現出するが、その背景にあるものは「変化への恐れ」である。
【3】実践的問題「何をなすべきか?」
こうした民主主義の危機的現象に対してテイラーが提案する是正策は、第一に「地域レベルでの自己組織化」であり、第二に「政府と一般市民の直接的な協議」である。第一の点について、テイラーは「右翼的ポピュリズム」を念頭において、次のように述べている。
 「多くの労働者階級や中流階級の人々が感じている正当な疎外感に取り組まなければ、排外主義的なポピュリズムとの戦いに勝つことはできない。彼らのニーズや希望を再び代表機関に反映させるために、断固とした行動をとらなければならない。ボトムアップで民主主義を再構築することはそのための重要な手段である。----地域社会のニーズと希望、そして民主主義システムとの間に、新たな強力なつながりが生まれる」
  高田氏はテイラーのこうした「ボトムアップ型の民主主義」というプロジェクトに対して、近年の民主主義をめぐるテイラーの議論からは、今までの文化的差異をめぐる排除が論点として後退していると指摘している。
【4】その他の論点
①「社会運動への評価」
 高田氏は、フェミニズム、LGBTの権利、環境保護のための社会運動が従来排除されていたマイノリティの包摂に果たした役割を評価しつつも、「投票あるいは代議制のプロセスに回収されない「社会運動」が、民主主義の退潮という悪循環をもたらす危険性を指摘している。
② トランプによる「歪められた民主主義への評価」
トランプのような右翼的なポピュリズム、あるいは国民の投票を認めるロシア、トルコ、イランの権威主義国家は、イタリアのファシズムやドイツのナチズムへの回帰を望んでいないと指摘するが、その通りであろう。
 

3 千葉氏の応答と全体の議論

<高田氏の質問に対する千葉氏の応答>

 <全体の議論>
① 佐野氏---マジョリティとマイノリティという二元論的対立のみならず、マイノリティにおける差異化を考える視点が必要ではないか。この点についてテイラーはどのように考えているのか。
 千葉氏---それは、カナダ政府の政策である「マルティ・カルチャリズム」とケベック州政府の「インター・カルチャリズム」と関係している。
 高田氏---テイラーの場合、そのようなマイノリティの差異化についての認識は希薄である。
② 松本氏---❶戦後ドイツの「闘う民主主義」ー自由を否定する者には自由を与えないーは、価値中立的な「手続き的民主主義」とは異なるものか、またそれは、「多文化的な差異の民主主義」とはどのような立場に立つのか。
❸ 千葉報告の中で、個人、国民、少数者集団、「フォルク」といった概念が併記されているが、その関係はどのようなものか。
③ 古賀氏---❶-政府と市民の政策に関する直接的な協議は実際にどこまで可能か。それは政党や議会をバイパスすることによって、議会制デモクラシーの活性化ではなく、機能低下をもたらすのではないか。
❷ テイラーの民主主義論において彼のキリスト教信仰が果たしている役割はあるのか、あるとしたらどのようなものか。




第二十九回研究会(2024.11.25)

    【テーマ発表】
発表者:大村一真(日文研)
テーマ:「J・ハバ―マス------公共性と熟議のゆくえ」
コメンテイター:成田大起氏(立命館大学政策科学部准教授)

1  大村氏の報告の要旨
 大村氏の報告は、1 「民主主義の危機」2.「危機の克服としての正統性:包摂と熟議」3.「公共圏の可能性とその限界」4.「諸批判とその周辺」によって構成されている。
【1】民主主義の危機
  大村氏は、ハバ―マスの民主主義の危機理解を、シュトレーク『時間稼ぎの資本主義』(2013)との論争から理解しようとする。ハバ―マスにとってもシュトレークにとっても民主主義の危機の原因は、新自由主義がもたらす経済格差や一部の政治・経済エリートによる政治的支配にあった。ハバ―マスは、制御不可能なグローバルな市場主義が国民国家への退却や右翼ポピュリズムを招来していると考える。しかし、ハバ―マスはシュトレークと異なり、政治文化に組み込まれた民主主義的な制度・規則・実践といった「歯止めの力」(Behartungskraefte)が存在することを強調する。シュトロークの新自由主義による危機のダイナミズムという処方箋は、「歯止めの力」や「下からの社会運動や抵抗運動」を視野の外に追い出してしまうあまりにも悲観的な分析である。大村氏は、ハバ―マスにとっての民主主義の危機は、単に新自由主義の産物ではなく、「歯止めの力」が失われた時に起こるものであるとし、このような「歯止めの力」の存在を、ハバ―マスの最近の著作である『公共性の新たな構造転換と熟議的政治』(2022年)において立証しようと試みる。
【2】危機の克服としての正統性:包摂と熟議
ハバ―マスにとって、支配の正統性は、できるだけ多くの市民を包摂し、なお政治的意思形成において熟議が行われることである。今日における正統性の実現は、憲法革命によって生じた自由と平等な基本権の獲得という理想と現実の落差をどのように埋めるかにかかっている。それは、ハバ―マスの新たな「公共圏」理解を生み出していく。
【3】公共圏の可能性とその限界
ハバ―ーマスは、『事実性と妥当性』(1992年)において、公式の公共圏である議会での討議や政治的決定を「第一の回路」と呼び、市民社会よいう非公式的な公共圏で市民が直接参加する熟議を第二の回路と呼び、「二回路システム」を論じていた。ハバ―マスは、『公共性の新たな構造転換と熟議的政治』(1922年)においては、第二の回路における競合する意見の対立を強調し、熟議を合意志向の実践と同一視する通説的見方に異議を唱え、熟議は対立・闘争に寄与すると考える。問題は、この第二の回路をどのように第一の回路につなげていくかである。つまり、私的な生活領域から批判的な経験を拾い上げ、それを抗議の声に加工し、政治的な公共圏に転送することが必要である。
とはいえハバーマスは、C・ムフやW・コノリーなどの「闘技的民主主義」に対しては、2022年の著書においては、闘技は対立をあおり、公共性を脅かすと批判的であった。闘技的な対立を強調する民主主義は、他者を貶め、分断をもたらし、不寛容な社会をもたらす危険性があるのである。それは、公共性の断片化つまり半公共圏(Halboeffentlichkeit)をもたらしかねない。こうした半公共圏は今日では、SNSなどのデジタル公共圏であり、それは共通の問題関心を共有せず、自らの閉ざされた世界に閉じこもり、社会の分断化がエスカレートしていく。つまりSNSは、拡散してバラバラになっている様々なイメージを集め、選別し、集約する機能に欠けているのである。がハバ―マスは、半公共圏の拡大を食い止める改善策として、IT企業におけるオンライン・プラットフォームの自主規制を提唱している。
 【4】諸批判とその周辺
以上のハバーマスのデジタル公共圏に関する議論には、雑誌『コンステレーションズ』の『新構造転換』に関する特集号で(2023.3)で様々な批判が展開されている。
大村氏は、今後のハバ―マス研究の課題として、第一に公共圏の包摂性の問題を「公共圏」と「半公共圏」の区別という観点から再考すること、第二に公共圏のうちに働く権力関係を明らかにすることの二つを挙げている。

Ⅱ 成田大起氏のコメント
1 公共圏の新たな(neu)/更なる(erneut)構造転換とは何を意味するのか?その「新しさ」をどう評価するのか?
ハバ―マスの『公共性の構造転換』(1962年)においては、中世の「示威的な公共圏」(representative Oeffentlichkeit)→近代の「市民的公共圏」(buergerliche Oeffentlichkeit)→20世紀の「操作的公共性」(manipulative Oeffentlichkeit)、つまり「公共圏の再封建化」の変遷が描かれていた。ところで、2022年の新『構造転換』における政治的公共圏から半公共圏、公共性の断片化への転換は、1962年の私生活的・受動的態度の拡大という「再封建化」の延長線上で理解すべきか、それともそれとは異なる全く新しい現象か?大村氏は、「半公共圏」は明確な政治的意思を有しているので新しいものと主張するが、旧構造転換における再封建化の市民たちもメディアを私的に消費しつつ、社会福祉国家のサービス拡充を目指していたので、半公共圏もその延長線上に考えることができるのではないか?
2 公共性の断片化を可能にした社会構造的要因を考える必要があるのでは?
大村報告は、民主主義の危機は、民主主義の複合体に備わっている「歯止めの力」が、「公共圏の断片化」で失われたことによると主張しているが、排外主義的なポピュリズムの源泉は、新自由主義による資本主義社会の構造的変化から理解すべきではないか?
質問として、報告者は、「民主主義の危機」をどのようにとらえているのか。単なる政治現象なのか、それとも社会構造的問題なのか。ハーバーマスがかって『後期資本主義における正統化の問題』で提示した危機理論をどのように評価するのか。
3 処方箋は存在するのか?
政治的な公共圏の再活性化の処方箋として、「歯止めの力」、つまりリベラルな自由権、平等な政治参加の権利、再分配を通じた社会的平等といった憲法規範、熟議のルールを持ち出すことは、保守的ではないか。私たちは歴史的に共有されてきたリベラルな価値を今後も維持できるのであろうか。民主主義の危機が、グローバルした資本主義経済を一国でコントロール事態にあるので、EUを模範とするトランス・ナショナルな政治的共同体の創設が必要とされるのではないか。また経済格差が進行し、社会的亀裂が進み、「半公共性」が主流になる中で、今まで以上に相互の「連帯」が必要とされているのではないか。
【成田氏の質問に対する大村氏の応答】
【1】たしかに「再封建化」の連続線上に「半公共圏」を考えることができるが、あえて言うならば、公共的なものが私的なものに格下げられることに特徴があるともいえる。
【2】シュトレークとハバ―マスは金融資本主義がもたらす公共圏の危機においては共通した認識を持っているが、憲法規範や熟議のル-ルなど「歯止めの力」に対する期待感がある。
【3】ハバ―マスのトランス・ナショナルな制度設計に関しては理解できるが、それ以上に人道的な連帯や共感の国境を越えた広がりが大事である。

Ⅲ 全体の議論
① 濱氏---リップマンは「公衆」(the public)を幻想とみなしたが、ハバ―マスはどうか。
 →大村氏ーーハバ―マスの言葉にaktive Buergershaftという言葉があるので、そうした政治的主体を認めていたのではないか。ただ『事実性と妥当性』(1992年)においては、講習や市民社会の力から法や権利といった手続きに対する期待にシフトしているのではないか。
→成田氏-----ハバ―マスは『事実性と妥当性』において「主体なきコミュニケーション」という言葉を使っているので、活発な市民の力というより、手続きの中で意見が洗練されていくことを考えていたのではないか。
②千葉氏
❶ ハバ―マスは、「ドイツの選択肢」のような右翼ポピュリズムに対してどう評価しているのか。→大村氏----ハバ―マスを含め自由主義的な知識人は、あまり相手にしていない。相手にすることによって注目を与えることになるから。
→成田氏 -----ハバ―マスは、右翼ポピュリズムの背景にあるものを、失業者や政府の再分配の対象にならない人々、落ちこぼれ、見捨てられた人々の困窮に見ている。
❷ ハバ―マスのSNSに対する評価は?
→大村氏 ハバ―マスは、デジタル公共圏には否定的であり、SNSの規制の必要性を認識している。
❸ ハバ―マスとシュトレークとの関係をもっと説明してほしい。通常、金融資本主義に対する批判で一致しつつも、解決策においては、国民国家の側に立つシュトレークとEUのようなトランス・ナショナルな制度設計を構想するハバ―マスとは異なると言われている。ただ今回の報告では視点を変えて、シュトレークにはないハバーマスの政治的な「歯止めの力」を強調した。
❸ ハバ―マスのムフの「闘技的民主主義」に対する評価は、低すぎるのではないか。ムフにおいても闘技の対象は、「対抗者」(adversary)であり。対抗者同士には共通の土壌があり、対話可能である。
→理論的にはその通りであると思う。
③ 古賀氏
①ハバ―マスのトランスーナショナルな制度設計による金融資本主義の制御は、エリート主義的になるだけではなく、逆説的に民主主義を弱体化せせるのではないか。
→大村氏----様々なコスモポリタニズムがあるが、制度的なものではなく、普遍的な人間性に基づく連帯が重要
→成田氏----EU議会の権限の拡大など、EUの民主化が必要
②兵庫県知事選挙にみられるように、SNSでフェイクニュースが流され、それが市民の政治的行動に影響を及ぼすなど、SNSが政治的公共圏をゆがめていると思うが、どう思うか。ただアラブの春など過去においてfacebookが独裁体制に抵抗する動員をもたらしたプラスの面もあるのも確かである。
→大村氏----SNSの問題、規制の問題はこれからの問題

④佐野氏
❶ハバ―マスの「理性的な発話状況」においては、判断力がなかったり、障碍者がコミュニケーションから排除され、はじきだされているのではないか。また理性という言葉は、排除の論理がある。その意味においては、SNSは、見捨てられている人々の発信のメリットとなりうるのではないか。SNSへの評価は、チャットGPTや生成AIなどの発達によって今後変わってくる可能性があるので、民主主義にとってマイナスの評価を下すことには慎重であったほうがいい。またハバ―マスは難民のような人権喪失にあるような人々に対してどう考えているのか。
→大村氏----ハバ―マスはいわゆる「見捨てられた人々」を公共圏から排除しているわけではないく、包摂しようと試みているが、暖かい共感能力はあまり見られない。
➄和田氏
 最近のハバ―マス研究では、ハバ―マスの「生活世界の植民地化」は現在、どのように論じられているか。この問題は民主主義の危機の根底にある者もの。
→大村氏 「生活世界」が国家と市場によって浸食を受けているという場合、ホーネットやフレイザーが論じているように国家以外のいかなる権力が浸食しているかが問題。
→成田氏 ----グローンバルな金融システムそのものは権力であり、それによる生活世界の
植民地化は、まさに民主主義の危機であり、現在進行中の問題。またSNSも、グローバル資本のプラットフォームである限り、「生活世界の植民地化」にかかわってくる危険性がある。
➅ 村田氏
主に現在起きていることが議論の対象となっているが、新しい構造転換に現れる「競合する世論」は、どのような歴史的文脈において定式化されているのか。
→大村氏----例えば「対抗的公共圏」やムフの「闘技的民主主義」の議論がこれに近く、競合する意見の包摂を試みるもの。
→成田氏-----競合する世論には、憲法原則や討議のルールの共有が前提となっており、それなしのあくなき闘いではない。
⑦長谷川氏
最近大学院生と一緒にフィンレーの『民主至上主義』という書物を読んだ。「民主至上主義」とは、民主主義者を装いながら、外から民意を形成し、民衆の生の声を無視することであるが、このジャンルにロールズとハバ―マスも含まれている。こうした見解をどう思うか。


第三十回研究会(2025.1.27)

  【テーマ発表】

発表者 :和田昌也氏(同志社大学)

論題:「H・アーレントの民主主義論ー評議制から連邦制へ」

コメンテイター:森川輝一氏(京都大学法学研究科教授)

【1】和田氏の発表要旨
 発表の構成は以下の通りである。
⒈ はじめにーアーレントと民主主義の錯綜する関係
2 間接民主主義に抗するアーレントー議会制批判の諸理由
3民主主義を肯定する「国民国家と民主主義」草稿
4評議制から連邦制へーその可能性と限界
5 おわりにー安定性と新規性の民主主義
 
1.はじめに
 民主主義の危機ー全体主義的擬制の状況下でアーレント再読のアクチュアリティが説かれている。しかし、アーレントの民主主義の内実は定まったものではない。とはいえアーレントの「活動」の概念は、アテナイのポリスにおける民主主義の実践を概念化しているもので、ラディカル・デモクラシーの視点から注目されてきた。
2 間接民主主義に抗するアーレントー議会制批判の諸理由
 アーレントの間接民主主義批判は、『全体主義の起源』第二巻第八章「大陸帝国主義と汎民族運動」、第三巻第十章「階級社会の崩壊」において論じられている。そこでは、民主制の下で大衆が政治的に無関心であり、民主制は意思表示のない統制不可能な大衆の声に依存していること、そして実際には少数支配が行われ、多数の人が代表されていないと感じていることである。こうした大衆は、全体主義運動によって操作さtれ、動員されていく。ではどうしてそうなるのか。
 第一に、代表制が諸個人の政治的自覚を阻害すること、また大衆は「共通の世界」を喪失していることである。第二に政党が「代表」しえない層の人々を代表している点である。総じて、大衆社会における代表不可能性の問題が代表制の危機に露呈しているのである。アーレントはこうした危機からの回復の処方箋を1963年の「国民国家と民主主義」に論じている。
3 民主主義を肯定するー「国民国家と民主主義」
  アレントによれば、民主主義は国民国家の枠内では実現できない。まず彼は、一枚岩的な人民の意志を説く民主主義は複数性の活動とは相いれない。ルソー的な人民主権概念は、アーレントにとっては唾棄すべきものである。アーレントは、権力の集中する国民国家では民主主義の実現は困難と考え、「国民国家における権力の集中が終焉し、連邦制という数多くの権力の極へと権力が分散する」所でのみ可能である。アーレントは、「私は民主主義という語を、何らかの基本権の単なる保護ではなく、公的事柄の決定における人々の積極的政治参加を意味している」と述べている。
4 評議会から連邦制ーその可能性と限界
 アーレントにとって評議会制度は、権力の下から上への構成、権力の分散が存在する点において民主主義的であった。まさにそのモデルは、連邦制である。
 
【2】森川氏のコメント
① テーマはアーレントの民主主義であるが、アーレント自身は民主主義の概念については積極的に論じていない。
② 和田氏は、アーレントの評議会に着目しているが、なぜ現行のリベラル・デモクラシーではだめなのか。19世紀の代議制民主主義は大衆社会において機能喪失したが、評議会制度の理念を生かすことによって、リベラル・デモクラシー、代議制民主主義を再構築できるのでは。評議会(革命)による代議制の転覆か、評議会による代議制の補完か、報告者はどちらを選択するか。
③ そもそもアーレントの評議会とは何か? 評議会は、参加型の直接民主主義を目指すが、アーレントは1956年のハンガリー革命にそのモデルを見出す。そこでは指導者不在で、無数の評議会の水平的ネットワーク、独特の選挙制度で成立しているが持続性や安定性は欠如している。独特の選挙制度とは、代議制の無記名の秘密投票とどこが異なるのか。
④ 現今の反リベラルなポピュリズムは、「参加型の直接民主主義」が実践された結果ではないか。そうだとすれば、それに対抗するものとしては、「市民の基本権保証」を目的とするリベラル・ディモクラシーがよいのではないか。

第三十一回(2025.3.3)

【テーマ発表】

発表者:松本彩花(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤講師)

論題:「ケルゼン民主主義論における命令的委任の概念ー人民主権と代表制の関係に対する一考察」

コメンテイター:古賀敬太(大阪国際大学名誉教授)

第三十二回研究会予告(2025.3.24) 

 発 表者 :佐野 誠(奈良教育大学名誉教授)

論題:「マックス・ヴエーバーの人民投票的指導者民主制の構想とその限界ー特にカリスマ的支配との関係」」

コメンテイター:内藤葉子氏(大阪公立大学現代システム科学研究科教授)

  【佐野氏の発表】
佐野氏からは、以下の順番で報告があった。
Ⅰ 問題の所在と限定
  一般に「人民投票的指導者民主制」と「カリスマ的指導者民主制」が結びつけられることが多いが、カリスマ、カリスマ的支配という言葉は、時事的政治論文では最晩年の『職業としての政治』以外には用いられていない。第一次大戦後の人民投票的大統領とカリスマ支配は関係づけられていない。そこでカリスマ概念がどのように実践的に使用されているかを、『マックス・ヴェーバー全集』における新資料に基づいて報告する。
Ⅱ ヴォルフガング・J・モムゼンの問題提起
ヴェーバーの人民投票的民主主義の理論がシュミットによる権威主義的な解釈替えを可能とし、ヒトラーの独裁を正当化することになったというモムゼン・テーゼに対する批判。そのためにヴエーバーの時事的政治論文と客観的な経験科学の論文を区別して考察することが大事。

Ⅲ 時事的政治論文と経験科学的理論的著作の区別、およびそれらの執筆された時期
Ⅳ ヴェーバーの民主主義論の特質

① 民主主義の体系的な説明の欠如
②ウェーバーは、民主主義と自由主義の調和を考えているが、「未完のプロジェクト」
③ 民主主義は、形式的な普通平等選挙権を意味し、「人民の意思」を擬制とみなす。
”「人民の意思」(Wille des Volkes)や「人民の真の意思(wahrer Wille des Vokes) というような概念は、私にとってはずっと以前からもはや存在していない。それらは擬制(Fiktion)である。”(1908年ミヒェルスへの書簡)
④民主主義や議会主義は、ドイツの権力国家実現の手段であり、自然法的確信ではない。
⑤強力な官僚制を統制するための民主主義と議会主義改革
⑥ 人民投票的指導者民主主義は、戦前から戦後への過度期の構想
Ⅴ 人民投票的指導者民主制の構想とカリスマ支配
① 「人民投票的民主制」ー指導者民主制の最も重要な類型は、その純粋な意味からすれば一種のカリスマ的支配、すなわち被支配者の意思から引き出され、この意思によってのみ存続する正当性という形式のもとに隠された一種のカリスマ的支配である。」(『支配の諸類型』)
 「政治指導者は、議会を通してではなく、大衆デマゴーギー的手段によって大衆の信任と信頼それ自体を、したがって自らの権力を獲得する。これは、事情の核心からすれば、指導者選抜のカエサル主義的な転回を意味している。実際民主主義にはこのような傾向がある。特殊にカエサル主義的手段とは何か。それは人民投票である。これは普通の『投票』
とか『選挙』とかではなく、自己の指導者としての使命に対する喝采(アクラマツィオーン)を要求する人物への『信仰告白』である。」

人民投票によって直接に選出された指導者は議会にたいす九回研究会(2024.11.25)

    【テーマ発表】

発表者:大村一真(日文研)

テーマ:「J・ハバ―マス------公共性と熟議のゆくえ」

コメンテイター:成田大起氏(立命館大学政策科学部准教授)


1 大村氏の報告の要旨

 大村氏の報告は、1 「民主主義の危機」2.「危機の克服としての正統性:包摂と熟議」3.「公共圏の可能性とその限界」4.「諸批判とその周辺」によって構成されている。

【1】民主主義の危機

  大村氏は、ハバ―マスの民主主義の危機理解を、シュトレーク『時間稼ぎの資本主義』(2013)との論争から理解しようとする。ハバ―マスにとってもシュトレークにとっても民主主義の危機の原因は、新自由主義がもたらす経済格差や一部の政治・経済エリートによる政治的支配にあった。ハバ―マスは、制御不可能なグローバルな市場主義が国民国家への退却や右翼ポピュリズムを招来していると考える。しかし、ハバ―マスはシュトレークと異なり、政治文化に組み込まれた民主主義的な制度・規則・実践といった「歯止めの力」(Behartungskraefte)が存在することを強調する。シュトロークの新自由主義による危機のダイナミズムという処方箋は、「歯止めの力」や「下からの社会運動や抵抗運動」を視野の外に追い出してしまうあまりにも悲観的な分析である。大村氏は、ハバ―マスにとっての民主主義の危機は、単に新自由主義の産物ではなく、「歯止めの力」が失われた時に起こるものであるとし、このような「歯止めの力」の存在を、ハバ―マスの最近の著作である『公共性の新たな構造転換と熟議的政治』(2022年)において立証しようと試みる。

【2】危機の克服としての正統性:包摂と熟議

ハバ―マスにとって、支配の正統性は、できるだけ多くの市民を包摂し、なお政治的意思形成において熟議が行われることである。今日における正統性の実現は、憲法革命によって生じた自由と平等な基本権の獲得という理想と現実の落差をどのように埋めるかにかかっている。それは、ハバ―マスの新たな「公共圏」理解を生み出していく。

【3】公共圏の可能性とその限界

ハバ―ーマスは、『事実性と妥当性』(1992年)において、公式の公共圏である議会での討議や政治的決定を「第一の回路」と呼び、市民社会よいう非公式的な公共圏で市民が直接参加する熟議を第二の回路と呼び、「二回路システム」を論じていた。ハバ―マスは、『公共性の新たな構造転換と熟議的政治』(1922年)においては、第二の回路における競合する意見の対立を強調し、熟議を合意志向の実践と同一視する通説的見方に異議を唱え、熟議は対立・闘争に寄与すると考える。問題は、この第二の回路をどのように第一の回路につなげていくかである。つまり、私的な生活領域から批判的な経験を拾い上げ、それを抗議の声に加工し、政治的な公共圏に転送することが必要である。

とはいえハバーマスは、C・ムフやW・コノリーなどの「闘技的民主主義」に対しては、2022年の著書においては、闘技は対立をあおり、公共性を脅かすと批判的であった。闘技的な対立を強調する民主主義は、他者を貶め、分断をもたらし、不寛容な社会をもたらす危険性があるのである。それは、公共性の断片化つまり半公共圏(Halboeffentlichkeit)をもたらしかねない。こうした半公共圏は今日では、SNSなどのデジタル公共圏であり、それは共通の問題関心を共有せず、自らの閉ざされた世界に閉じこもり、社会の分断化がエスカレートしていく。つまりSNSは、拡散してバラバラになっている様々なイメージを集め、選別し、集約する機能に欠けているのである。がハバ―マスは、半公共圏の拡大を食い止める改善策として、IT企業におけるオンライン・プラットフォームの自主規制を提唱している。

 【4】諸批判とその周辺

以上のハバーマスのデジタル公共圏に関する議論には、雑誌『コンステレーションズ』の『新構造転換』に関する特集号で(2023.3)で様々な批判が展開されている。

大村氏は、今後のハバ―マス研究の課題として、第一に公共圏の包摂性の問題を「公共圏」と「半公共圏」の区別という観点から再考すること、第二に公共圏のうちに働く権力関係を明らかにすることの二つを挙げている。


Ⅱ 成田大起氏のコメント

1 公共圏の新たな(neu)/更なる(erneut)構造転換とは何を意味するのか?その「新しさ」をどう評価するのか?

ハバ―マスの『公共性の構造転換』(1962年)においては、中世の「示威的な公共圏」(representative Oeffentlichkeit)→近代の「市民的公共圏」(buergerliche Oeffentlichkeit)→20世紀の「操作的公共性」(manipulative Oeffentlichkeit)、つまり「公共圏の再封建化」の変遷が描かれていた。ところで、2022年の新『構造転換』における政治的公共圏から半公共圏、公共性の断片化への転換は、1962年の私生活的・受動的態度の拡大という「再封建化」の延長線上で理解すべきか、それともそれとは異なる全く新しい現象か?大村氏は、「半公共圏」は明確な政治的意思を有しているので新しいものと主張するが、旧構造転換における再封建化の市民たちもメディアを私的に消費しつつ、社会福祉国家のサービス拡充を目指していたので、半公共圏もその延長線上に考えることができるのではないか?

2 公共性の断片化を可能にした社会構造的要因を考える必要があるのでは?

大村報告は、民主主義の危機は、民主主義の複合体に備わっている「歯止めの力」が、「公共圏の断片化」で失われたことによると主張しているが、排外主義的なポピュリズムの源泉は、新自由主義による資本主義社会の構造的変化から理解すべきではないか?

質問として、報告者は、「民主主義の危機」をどのようにとらえているのか。単なる政治現象なのか、それとも社会構造的問題なのか。ハーバーマスがかって『後期資本主義における正統化の問題』で提示した危機理論をどのように評価するのか。

3 処方箋は存在するのか?

政治的な公共圏の再活性化の処方箋として、「歯止めの力」、つまりリベラルな自由権、平等な政治参加の権利、再分配を通じた社会的平等といった憲法規範、熟議のルールを持ち出すことは、保守的ではないか。私たちは歴史的に共有されてきたリベラルな価値を今後も維持できるのであろうか。民主主義の危機が、グローバルした資本主義経済を一国でコントロール事態にあるので、EUを模範とするトランス・ナショナルな政治的共同体の創設が必要とされるのではないか。また経済格差が進行し、社会的亀裂が進み、「半公共性」が主流になる中で、今まで以上に相互の「連帯」が必要とされているのではないか。

【成田氏の質問に対する大村氏の応答】

【1】たしかに「再封建化」の連続線上に「半公共圏」を考えることができるが、あえて言うならば、公共的なものが私的なものに格下げられることに特徴があるともいえる。

【2】シュトレークとハバ―マスは金融資本主義がもたらす公共圏の危機においては共通した認識を持っているが、憲法規範や熟議のル-ルなど「歯止めの力」に対する期待感がある。

【3】ハバ―マスのトランス・ナショナルな制度設計に関しては理解できるが、それ以上に人道的な連帯や共感の国境を越えた広がりが大事である。


Ⅲ 全体の議論

① 濱氏---リップマンは「公衆」(the public)を幻想とみなしたが、ハバ―マスはどうか。

 →大村氏ーーハバ―マスの言葉にaktive Buergershaftという言葉があるので、そうした政治的主体を認めていたのではないか。ただ『事実性と妥当性』(1992年)においては、講習や市民社会の力から法や権利といった手続きに対する期待にシフトしているのではないか。

→成田氏-----ハバ―マスは『事実性と妥当性』において「主体なきコミュニケーション」という言葉を使っているので、活発な市民の力というより、手続きの中で意見が洗練されていくことを考えていたのではないか。

②千葉氏

❶ ハバ―マスは、「ドイツの選択肢」のような右翼ポピュリズムに対してどう評価しているのか。→大村氏----ハバ―マスを含め自由主義的な知識人は、あまり相手にしていない。相手にすることによって注目を与えることになるから。

→成田氏 -----ハバ―マスは、右翼ポピュリズムの背景にあるものを、失業者や政府の再分配の対象にならない人々、落ちこぼれ、見捨てられた人々の困窮に見ている。

❷ ハバ―マスのSNSに対する評価は?

→大村氏 ハバ―マスは、デジタル公共圏には否定的であり、SNSの規制の必要性を認識している。

❸ ハバ―マスとシュトレークとの関係をもっと説明してほしい。通常、金融資本主義に対する批判で一致しつつも、解決策においては、国民国家の側に立つシュトレークとEUのようなトランス・ナショナルな制度設計を構想するハバ―マスとは異なると言われている。ただ今回の報告では視点を変えて、シュトレークにはないハバーマスの政治的な「歯止めの力」を強調した。

❸ ハバ―マスのムフの「闘技的民主主義」に対する評価は、低すぎるのではないか。ムフにおいても闘技の対象は、「対抗者」(adversary)であり。対抗者同士には共通の土壌があり、対話可能である。

→理論的にはその通りであると思う。

③ 古賀氏

①ハバ―マスのトランスーナショナルな制度設計による金融資本主義の制御は、エリート主義的になるだけではなく、逆説的に民主主義を弱体化せせるのではないか。

→大村氏----様々なコスモポリタニズムがあるが、制度的なものではなく、普遍的な人間性に基づく連帯が重要

→成田氏----EU議会の権限の拡大など、EUの民主化が必要

②兵庫県知事選挙にみられるように、SNSでフェイクニュースが流され、それが市民の政治的行動に影響を及ぼすなど、SNSが政治的公共圏をゆがめていると思うが、どう思うか。ただアラブの春など過去においてfacebookが独裁体制に抵抗する動員をもたらしたプラスの面もあるのも確かである。

→大村氏----SNSの問題、規制の問題はこれからの問題


④佐野氏

❶ハバ―マスの「理性的な発話状況」においては、判断力がなかったり、障碍者がコミュニケーションから排除され、はじきだされているのではないか。また理性という言葉は、排除の論理がある。その意味においては、SNSは、見捨てられている人々の発信のメリットとなりうるのではないか。SNSへの評価は、チャットGPTや生成AIなどの発達によって今後変わってくる可能性があるので、民主主義にとってマイナスの評価を下すことには慎重であったほうがいい。またハバ―マスは難民のような人権喪失にあるような人々に対してどう考えているのか。

→大村氏----ハバ―マスはいわゆる「見捨てられた人々」を公共圏から排除しているわけではないく、包摂しようと試みているが、暖かい共感能力はあまり見られない。

➄和田氏

 最近のハバ―マス研究では、ハバ―マスの「生活世界の植民地化」は現在、どのように論じられているか。この問題は民主主義の危機の根底にある者もの。

→大村氏 「生活世界」が国家と市場によって浸食を受けているという場合、ホーネットやフレイザーが論じているように国家以外のいかなる権力が浸食しているかが問題。

→成田氏 ----グローンバルな金融システムそのものは権力であり、それによる生活世界の

植民地化は、まさに民主主義の危機であり、現在進行中の問題。またSNSも、グローバル資本のプラットフォームである限り、「生活世界の植民地化」にかかわってくる危険性がある。

➅ 村田氏

主に現在起きていることが議論の対象となっているが、新しい構造転換に現れる「競合する世論」は、どのような歴史的文脈において定式化されているのか。

→大村氏----例えば「対抗的公共圏」やムフの「闘技的民主主義」の議論がこれに近く、競合する意見の包摂を試みるもの。

→成田氏-----競合する世論には、憲法原則や討議のルールの共有が前提となっており、それなしのあくなき闘いではない。

⑦長谷川氏

最近大学院生と一緒にフィンレーの『民主至上主義』という書物を読んだ。「民主至上主義」とは、民主主義者を装いながら、外から民意を形成し、民衆の生の声を無視することであるが、このジャンルにロールズとハバ―マスも含まれている。こうした見解をどう思うか。




第三十回研究会(2025.1.27)

  【テーマ発表】

発表者 :和田昌也氏(同志社大学)

論題:「H・アーレントの民主主義論ー評議制から連邦制へ」

コメンテイター:森川輝一氏(京都大学法学研究科教授)

【1】和田氏の発表要旨

 発表の構成は以下の通りである。

⒈ はじめにーアーレントと民主主義の錯綜する関係

2 間接民主主義に抗するアーレントー議会制批判の諸理由

3民主主義を肯定する「国民国家と民主主義」草稿

4評議制から連邦制へーその可能性と限界

5 おわりにー安定性と新規性の民主主義

 

1.はじめに

 民主主義の危機ー全体主義的擬制の状況下でアーレント再読のアクチュアリティが説かれている。しかし、アーレントの民主主義の内実は定まったものではない。とはいえアーレントの「活動」の概念は、アテナイのポリスにおける民主主義の実践を概念化しているもので、ラディカル・デモクラシーの視点から注目されてきた。

2 間接民主主義に抗するアーレントー議会制批判の諸理由

 アーレントの間接民主主義批判は、『全体主義の起源』第二巻第八章「大陸帝国主義と汎民族運動」、第三巻第十章「階級社会の崩壊」において論じられている。そこでは、民主制の下で大衆が政治的に無関心であり、民主制は意思表示のない統制不可能な大衆の声に依存していること、そして実際には少数支配が行われ、多数の人が代表されていないと感じていることである。こうした大衆は、全体主義運動によって操作さtれ、動員されていく。ではどうしてそうなるのか。

 第一に、代表制が諸個人の政治的自覚を阻害すること、また大衆は「共通の世界」を喪失していることである。第二に政党が「代表」しえない層の人々を代表している点である。総じて、大衆社会における代表不可能性の問題が代表制の危機に露呈しているのである。アーレントはこうした危機からの回復の処方箋を1963年の「国民国家と民主主義」に論じている。

3 民主主義を肯定するー「国民国家と民主主義」

  アレントによれば、民主主義は国民国家の枠内では実現できない。まず彼は、一枚岩的な人民の意志を説く民主主義は複数性の活動とは相いれない。ルソー的な人民主権概念は、アーレントにとっては唾棄すべきものである。アーレントは、権力の集中する国民国家では民主主義の実現は困難と考え、「国民国家における権力の集中が終焉し、連邦制という数多くの権力の極へと権力が分散する」所でのみ可能である。アーレントは、「私は民主主義という語を、何らかの基本権の単なる保護ではなく、公的事柄の決定における人々の積極的政治参加を意味している」と述べている。

4 評議会から連邦制ーその可能性と限界

 アーレントにとって評議会制度は、権力の下から上への構成、権力の分散が存在する点において民主主義的であった。まさにそのモデルは、連邦制である。

 

【2】森川氏のコメント

① テーマはアーレントの民主主義であるが、アーレント自身は民主主義の概念については積極的に論じていない。

② 和田氏は、アーレントの評議会に着目しているが、なぜ現行のリベラル・デモクラシーではだめなのか。19世紀の代議制民主主義は大衆社会において機能喪失したが、評議会制度の理念を生かすことによって、リベラル・デモクラシー、代議制民主主義を再構築できるのでは。評議会(革命)による代議制の転覆か、評議会による代議制の補完か、報告者はどちらを選択するか。

③ そもそもアーレントの評議会とは何か? 評議会は、参加型の直接民主主義を目指すが、アーレントは1956年のハンガリー革命にそのモデルを見出す。そこでは指導者不在で、無数の評議会の水平的ネットワーク、独特の選挙制度で成立しているが持続性や安定性は欠如している。独特の選挙制度とは、代議制の無記名の秘密投票とどこが異なるのか。

④ 現今の反リベラルなポピュリズムは、「参加型の直接民主主義」が実践された結果ではないか。そうだとすれば、それに対抗するものとしては、「市民の基本権保証」を目的とするリベラル・ディモクラシーがよいのではないか。


第三十一回研究会(2025.3.3)

【テーマ発表】

発表者:松本彩花(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤講師)

論題:「ケルゼン民主主義論における命令的委任の概念ー人民主権と代表制の関係に対する一考察」

コメンテイター:古賀敬太(大阪国際大学名誉教授)

第三十二回研究会(2025.3.24) 

 発 表者 :佐野 誠(奈良教育大学名誉教授)

論題:「マックス・ヴエーバーの人民投票的指導者民主制の構想とその限界ー特にカリスマ的支配との関係」」

コメンテイター:内藤葉子氏(大阪公立大学現代システム科学研究科教授)

  【佐野氏の発表】

佐野氏からは、以下の順番で報告があった。

Ⅰ 問題の所在と限定

  一般に「人民投票的指導者民主制」と「カリスマ的指導者民主制」が結びつけられることが多いが、カリスマ、カリスマ的支配という言葉は、時事的政治論文では最晩年の『職業としての政治』以外には用いられていない。第一次大戦後の人民投票的大統領とカリスマ支配は関係づけられていない。そこでカリスマ概念がどのように実践的に使用されているかを、『マックス・ヴェーバー全集』における新資料に基づいて報告する。

Ⅱ ヴォルフガング・J・モムゼンの問題提起

ヴェーバーの人民投票的民主主義の理論がシュミットによる権威主義的な解釈替えを可能とし、ヒトラーの独裁を正当化することになったというモムゼン・テーゼに対する批判。そのためにヴエーバーの時事的政治論文と客観的な経験科学の論文を区別して考察することが大事。

Ⅲ 時事的政治論文と経験科学的理論的著作の区別、およびそれらの執筆された時期

Ⅳ ヴェーバーの民主主義論の特質

① 民主主義の体系的な説明の欠如

②ウェーバーは、民主主義と自由主義の調和を考えているが、「未完のプロジェクト」

③ 民主主義は、形式的な普通平等選挙権を意味し、「人民の意思」を擬制とみなす。

”「人民の意思」(Wille des Volkes)や「人民の真の意思(wahrer Wille des Vokes) というような概念は、私にとってはずっと以前からもはや存在していない。それらは擬制(Fiktion)である。”(1908年ミヒェルスへの書簡)

④民主主義や議会主義は、ドイツの権力国家実現の手段であり、自然法的確信ではない。

⑤強力な官僚制を統制するための民主主義と議会主義改革

⑥ 人民投票的指導者民主主義は、戦前から戦後への過度期の構想

Ⅴ 人民投票的指導者民主制の構想とカリスマ支配

① 「人民投票的民主制」ー指導者民主制の最も重要な類型は、その純粋な意味からすれば一種のカリスマ的支配、すなわち被支配者の意思から引き出され、この意思によってのみ存続する正当性という形式のもとに隠された一種のカリスマ的支配である。」(『支配の諸類型』)

 「政治指導者は、議会を通してではなく、大衆デマゴーギー的手段によって大衆の信任と信頼それ自体を、したがって自らの権力を獲得する。これは、事情の核心からすれば、指導者選抜のカエサル主義的な転回を意味している。実際民主主義にはこのような傾向がある。特殊にカエサル主義的手段とは何か。それは人民投票である。これは普通の『投票』

とか『選挙』とかではなく、自己の指導者としての使命に対する喝采(アクラマツィオーン)を要求する人物への『信仰告白』である。」

人民投票によって直接に選出された指導者は議会に対して優位し、巨大な権力を保持する。
②戦後の人民投票的指導者民主主義の具体的内容
③人民投票的民主制とカリスマ的支配との関係

戦後のライヒ大統領を構想した『ドイツ将来の国家形態』、「ライヒ大統領」には、「カリスマ」という言葉は出てこない。『職業としての政治』においては、次のようにある。
「ところでぎりぎりの所で道は二つしかない。マシーンを伴う指導者民主制を選ぶか、そtれとも指導者なき民主制、つまり天職を欠き、指導者の本質を」なす内的・カリスマ的資質をもたぬ「職業政治家」の支配を選ぶかである。」
④ 佐野氏の見解
従来のヴェーバー解釈は、ライヒ大統領聖とカリスマ的支配を無批判に結びつけていたことの間違い。著者の主張
❶ ヴェーバーが評価するのは、情熱、責任感、判断力といったカリスマ的資質。
❷ ライヒ大統領制は合法的支配を前提としており、非合理的で情緒的なカリスマ的支配に力点を置いていない。
❸ ヴエーバーはカリスマ的支配を人民投票的民主主義を実践的に適用することに慎重であった。たとえ適用するとしても、それは真正カリスマではなく、「反権威主義的に解釈がえされた」カリスマ的支配である。

 【コメンテイターのコメント】
内藤氏は最初に佐野氏の書物『』

「第三十三回研究会(2025.4.21) 人文研第一回研究会

発表者:長野晃(慶応大学法学部専任講師)

論題:「利益集団なき喝采ーカール・シュミットの民主主義論」

コメンテイター:松本彩花氏、佐野誠氏